中学高校と、歴史が苦手だった。
教科書や参考書を読めば読むほど、わからないことがでてきて、当時はそれを調べるすべがなかったから、興味が薄れてしまうのだ。
因果が見えないことを、ただ丸暗記するのは退屈だ。
そこにいる人の気配が見えてこない歴史の記述は、つまらない。
末っ子の社会の勉強に付き合っていて、そんな思いが再燃している。
泣くよ坊さん平安京と、昔ながらのゴロ合わせも教わるらしい。
でも、なんで坊さんが泣くのかについては、あまり深くは教わらない。
一応、寺院の権力増大を嫌っての遷都、という説明はあるけど、そんなの、都を移して解決するもんなのか。坊さんにそんなに権力や財力があるなら、遷都に反対することもできるだろうし、新たな都でも力に物を言わせることだってできるだろうに。
昔の私が退屈したのと同じように、末っ子も退屈してる様子。「泣くよ坊さん」は覚えても、桓武天皇の名前も、セットででてくる最澄、空海についても、全く覚える意欲がわかないようだ。
勉強をみるついでに、私もこの機会に疑問を多少なりとも解消したくて、少し調べてみた。
奈良時代の終わりには、弓削道鏡という僧侶が、天皇に即位しかねないほど、仏教勢力が朝廷の政治を侵食していたらしい。
その前提として、貴族が財を増やすために寺院と癒着してあれこれする、みたいな状況もあったという。
道鏡は、聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙天皇の病を癒したことから寵愛されるようになり、やがて天皇と並び立つような勢いで、政治に深く関わるようになっていったという。
孝謙天皇は独身で、子供もいなかった。
実母である光明皇后の看病のために、一度退位したものの、跡を継いだ淳仁天皇や、かつての後ろ盾であった藤原仲麻呂(実母の甥でもある)に、道鏡との関係を諌められて激怒したことなどから対立し、彼らから権力を奪い取るために、称徳天皇として再度政権を握る。結果、戦争が起きて、藤原仲麻呂は斬首され、一族まるごと滅ぼされた。
称徳天皇は、対立勢力の粛清に励んで、ゆくゆくは道鏡を天皇にしようとしたようだが、その思惑は実現せず、皇太子を決めないまま亡くなる。その後、道鏡の一派は失権して粛清されるなどして、朝廷から追われていく。
孝謙天皇を血で血を洗う道へといざなう契機となっ道鏡が、どんな人だったのかと思ってググってみると、でてくる画像のほとんどが、巨大な男根のオブジェである。 各地に、道鏡に由来すものとして、そういうものが祀られているらしい。
女性の天皇と通じることで権勢を伸ばして、天皇の死後すぐ没落したから、ソレ以外の人間的特徴を後世に残す必要もないと、当時の体制側の人々が考えたのかどうかはわからない。道鏡を描いた小説などもあるようだから、そのうち読んでみよう。
なんとなく描いてみた、道鏡。
男根ばっかり見てても顔のイメージが湧かないので、お面つけてる。そのうち描き直す。
なにはともあれ、桓武天皇の「泣くよ坊さん」遷都の前提には、こんな事情もあったというわけだけど、それだけで遷都に繋がるとも思えない。だって、桓武天皇が即位する前に、道鏡、没落してるし。
きっと、問題はもっと複雑だ。
桓武天皇は、称徳(孝謙)天皇の次に即位した光仁天皇の息子だけれど、母親は、渡来系の家の出で、身分が低かったらしい。
また、桓武天皇が最初に遷都した長岡京は、渡来系の人々の勢力圏だったそうなので、お互いにいろいろ都合がよかったのかもしれない。
ところがこの遷都、うまくいかなかった。
遷都の責任者に抜擢した、藤原種継(この人も母方が渡来系の血筋だったようだ)が暗殺されてしまう。
政争に敗れて粛清された人々の怨霊が跋扈したのかなんなのか、災害も多かったようで、仕方なく次の平安京遷都となったとのこと。
平安京に遷都したあとも、世の中は平安どころか、まだしばらく血なまぐさいドロドロがつづく。
桓武天皇の後宮がやたらと賑やかなのは、政争ストレスの解消のためだったのかと、ちょっと想像する。