こんにちは。
(_ _).。o○
読書メモ。
寝る前に末っ子に町田康の「太平記 ラブ&ピース」を音読してもらったら、一ページ読み切る前に爆睡していた。
決して小説がつまらなかったのではない。
ウォーキングや「横にならない生活」のせいで、よれよれに疲れていたので、睡魔に負けてしまったのだ。
今日は、昨晩の続きを座って読みつつ、歴史の復習をしている。
もともと歴史音痴だけど、鎌倉時代末から室町時代にかけての歴史は特に苦手で、なかなか頭に入らない。
南北朝時代の、大覚寺統と持明院統の成り立ちとか、それぞれの天皇家の系譜とか、何度覚えようと思っても、ややこしすぎて、さっぱり記憶に残らない。
で、せっかく町田康版「太平記」を読むのだから、今度こそきっちり覚えようと思ったのだけども……
朝廷が南北に分かれる前段階として、四条天皇という方が、珍妙な亡くなり方をするという事件があったという。
十二歳の四条天皇は内裏の広間の端に立っていた。傍には筺を持った女官たちが控えている。四条天皇は女官に言った。
「さ、それを床に塗ってください」
「マジですか」
「マジです」
「けど、こんなん床に塗ったら危ないです。ムッチャクチャ滑りやすくなります」
「だからいいんじゃないですか。私はそれを見て笑いたい」
けど、私らが後で叱られます」
「なにをおっしゃいますやらキャベツやら高野豆腐やら。そんな奴らの先ぞ知らるる。私を誰だと思ってるんですか。私は帝ですよ。主上ですよ。私が言ったことは必ず実行されなければなりません。綸言汗のごとし」
「わかりました」
そんなことで帝に逆らえず女官が泣きながら御殿の床に塗った粉というのは、滑石の粉末で、四条帝が何の為にそんなものを床に塗らせたのかというと、これを塗ることによって床を滑り易くし、知らずに歩いた女官や顕官が足を取られて転倒するのを見てゲラゲラ笑おうと思っての事であった。マア、十二歳の男子が考えそうな悪戯ではある。
で、どうなったかというと、四条天皇は自分が仕掛けたツルツルの床で滑って転んで頭を強打し、そのまま亡くなったのだという。
ほんとかしらと思うけれど、鎌倉後期に書かれた「五代帝王記」という歴史書に、この通りのことが書かれているらしい。
もともと四条天皇は、承久の乱(1221年)で北条氏とガチンコ対決して負けた後鳥羽院系の皇族ではない、という理由で選ばれていたのだけど、たったの十二歳で後継を作る前に亡くなってしまい、非後鳥羽院系で擁立できそうな皇族が他にいなかったため、朝廷側は鎌倉の執権、北条泰時にお伺いを立てることにした。
泰時も決めかねたのか、神前のくじ引きによって選ぶように言い、その結果、土御門院の子である邦仁王(後鳥羽院の孫)が即位して、後嵯峨天皇となった。
で、その後嵯峨天皇は、息子(後深草天皇)に位を譲り、院政を行っていたものの、次の治天の君を定めずに崩御してしまう(1246年)。
後嵯峨院が亡くなった時点で、後深草は弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位していて、亀山天皇の皇子である世人親王(後宇多天皇)が立太子している。それらは生前の後嵯峨院の意向であったという。
後深草と亀山は、両方とも後嵯峨院の息子であり、同腹の兄弟だけれど、彼らの父親はどうやら弟(亀山天皇)の方を愛していたらしい。
とはいうものの、後嵯峨院としては、自分の時と同じように、鎌倉幕府側にお伺いを立てて治天の君を決めてもらうつもりだったらしいのだけど、鎌倉幕府側が逆に後嵯峨院の意向を尋ねてきたため、後深草と亀山の母親である大宮院姞子( おおみやいんきっし)に聞き取り調査を行った結果、やっぱり弟のほうだろうということになり、亀山天皇が治天の君となったという。
割を食った形の後深草上皇が面白いはずがなく、鎌倉側に根回しをして、自分の息子の照仁親王(伏見天皇)を立太子させることに成功。その後、鎌倉幕府からの圧で、亀山院の息子である後宇多天皇を譲位させて、息子の伏見天皇を即位させると、後深草は院政を開始。
両派閥のゴタゴタはその後も続き、鎌倉幕府が「両統迭立」の方針を掲げてからは、両統が交互に君主を出すことになる。
うん。ややこしい。覚えられる気がしない。
四条天皇がすっ転んで亡くなった話以外は、明日になればすっかり脳から抜け落ちている自信がある。
日本史を覚えるのに一番手っ取り早いのは、その時代を取り扱ったドラマや映画を見ることだけど、NHK大河ドラマの「太平記」は足利尊氏(1305-1358)の話だから、尊氏が生まれる半世紀前の亀山天皇や後深草天皇の話はたぶん出てこない。
もうちょっと近い時代のものはないかと探してみたら、NHK大河ドラマ「北条時宗」というのがあった。2001年、主演は和泉元彌。全く記憶にない。
NHKオンデマンドで、第一話を視聴してみた。
鎌倉幕府第五代執権の渡辺謙(北条時頼)が、敵対する三浦一族を滅ぼす宝治合戦(1347年)のところから物語が始まっていた。
大河ドラマで歴史を記憶しているせいで、私の脳内の日本史の年表には、渡辺謙が複数配置されている。
いま見ている「べらぼう」では田沼意次、「鎌倉殿の13人」では平清盛。
末っ子の日本史対策で一緒に見たNHKのドラマ「負けて、勝つ 戦後を創った男 吉田茂」では、渡辺謙が日本の戦後を創っていた。
だいぶ前になるけど、「炎立つ」では、悲劇のヒーローの渡辺謙(藤原経清)が首を鋸引きされて死んだ後、奥州藤原氏四代目の渡辺謙(藤原泰衡)が……なんか、ダメ息子だった気がするけど、最後どうなったのか覚えていない。脳内日本史は渡辺謙が牽引している。
話が横にそれた。
宝治合戦(1247年)の前年、1246年に、後嵯峨天皇が譲位して、まだ二歳だった後深草天皇が即位。のちに対立する亀山天皇は、まだ生まれていない。ドラマをもう少し先まで見れば、後嵯峨院や亀山天皇も必ず出てくるはずなので、しっかり記憶しようと思う。

