NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第30回「全成の確率」を視聴した。
見る前から、サブタイトルがとても気になっていた。阿野全成(新納慎也)の退場回なのは想像がつくけれど、「確率」って一体なんなのかと。
どうやら、全成の法力(ほうりき)が発動する確率だったらしい。
思えば、全成の最初に登場シーンは、とても格好が悪かった。
治承四年の頼朝の挙兵後、寺に隠れていた北条家の女性たちを暴漢から守ろうとして、華々しく九字を切ったものの、見事に空振りして役に立たなかった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
というのは、九字護身法(くじごしんぼう)というのだそうで、もともとは仏教由来ではなく、「道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法」(Wikipediaより)なんだとか。
その後も、全成の空振りは続く。
インチキ臭い僧侶、文覚との法力の競演(?)シーンでも気圧されていた。
迫り来る死から逃れようと足掻く頼朝に、いろいろとアドバイスをするものの、効果は皆無。むしろ混乱を招いただけだった。
時政に頼まれて、頼家が病に倒れるようにと呪詛した時は、なぜか人形をほぼ回収してから効いてしまった。あれは回収しそびれた(おかげで呪詛が露見し断罪されることになった)一個が奏功したということなのだろうか。
けれども、処刑間際になって、全成の法力は恐るべき冴えを見せる。
刑場に轟く雷鳴と、突然の豪雨が、全成の首を刎ねようとする八田知家(市原隼人)の家人を脅かす。残念ながら、落雷は八田知家や家人たちを外したため、全成は結局処刑されてしまい、首桶に入って頼家の元に届けられた。
全成の生涯にわたっての法力の発動確率は、何パーセントくらいだったのかは分からないけど、だいぶ低い数字になるのは間違いない。
桶に入った叔父の剃り上げられた頭頂と、いつも蹴り上げている鞠の表面を重ね合わせて思いに耽っていた頼家は、だいぶ悪趣味だと思うけれども、あれは確かに凸凹具合も含めてよく似ていたから、仕方がなかったかもしれない。
確率のことといい、斬首後の頭と鞠との比較といい、脚本家さんは、全成をとことんいじる方針だったのだろうか。
Wikipediaを眺めていて知ったのだけど、後醍醐天皇の側室の阿野廉子(あの れんし・新待賢門院)は、阿野全成の子孫なのだという。
鎌倉殿に殺された全成の子孫が、鎌倉幕府を倒そうとする天皇の寵姫になったというのは、ものすごい歴史の皮肉だけれども、もしかしたら、全成の呪詛が百年越しで効いたからかもしれない。
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最後まで愛すべきキャラとして終了した阿野全成とは対照的に、比企能員(佐藤二朗)は、どんどんグロテスクな人柄になっていく。
最初のころの比企能員は、出世欲の薄い、どことなくとぼけキャラに見えたのに、次第に私利私欲に濁った俗物になっていった。
それでも、源範頼に謀反の濡れ衣を押しつけて自分だけバックれたときは、小声で「樺殿すまん!」と口にするほどの罪悪感を持っていた。
でも今回、呪詛の咎で常陸国に流された全成に、改めて呪詛の濡れ衣を着せて死罪に追いやった比企能員は、完全に悪人だった。政敵を殺すことにもはや後ろめたさのカケラもなく、自分たち夫婦が育てた頼家すら、思い通りにならなければ亡き者にしようとする。顔もどんどん不気味になっていって、俳優さんの演技だと分かっていても、ぞっとした。
比企家の良心とも言うべき比企尼は、既に亡くなってしまったのか、姿が見えない。彼女が元気だったなら、猶子である能員の暴走を止めただろうに。
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毎度楽しみの歴メシネタだけど、今回は残念ながら食べ物の姿が見えなかった。お酒は飲んでも肴はなし。(見落としていたらごめんなさい)
ドラマのなかでは、昼間の来客にもお酒を出しているシーンが度々あった。現代人の感覚だと、昼間から飲酒というのには違和感があるけれども、この時代、日常的にお茶を飲むという習慣が、まだない。
南宋に留学した栄西が、茶の種を持ち帰って、喫茶を広めはじめたのは建久二年(1191年)以降。
唐医の語るを聞く、云く、「若し茶を喫せざる人は、諸薬の効を失ひ、病を治することを得ず。心臓弱きが故なり。
その後、源実朝のころになると、病気の時にお茶を飲むことで治った、という記事が「吾妻鏡」(健保二年)にあるというのだけど、まだ見つけていない。そのうちまた探してみよう。