NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第46回「将軍になった女」を視聴した。
実朝が亡くなり、鎌倉殿の後継をめぐって、義時と後鳥羽上皇の意地の張り合いが続く。
そんななかで、阿野全成の遺児である時元が、鎌倉殿の座を狙って謀反を起こしたものの、義時に情報を握られていたせいで、あっという間に粛清されてしまう。
討たれる場面すらなく退場した時元の代わりに、母親の実衣が謀反に関わっていたことを厳しく追求され、処刑寸前まで追い込まれてしまう。
ドラマでは、実衣が時元をそそのかして決起させていたけれども、Wikipediaの阿野時元の記事を読むと、討手を向けられたことを知ったから決起したという説や、冤罪だったという説もあるようだ。
それにしても、時元という人は、頼朝と義時の甥であり、三代目鎌倉殿の乳兄弟でもありながら、妙に影の薄い存在だ。
父親の阿野全成が謀叛人として処刑されたあと、粛清を恐れて、極力目立たないように暮らしていたのかもしれない。
けれども、公暁が実朝を暗殺するという事件があったせいで、義時や幕府の宿老たちの目には、時元も「清和源氏の血を引いていることを理由に、鎌倉殿の地位を狙う可能性がある者」として認識されてしまったのかもしれない。
ドラマでは出てこなかったけれども、公暁には禅暁という弟もいて、実朝暗殺の後、兄に加担した疑いをかけられ、誅殺されているという(Wikipediaの禅暁の記事による)。
時元が謀叛を起こしたというのが冤罪だったのか、ドラマのように罠にはまって起こしてしまったのかは分からないけれども、義時の権力が揺るぎない鎌倉では、先のない立場だったのは間違いのないところだろう。
いずれにせよ、実衣は、夫と息子を骨肉の争いで失ったことになる。
ただ、時元には義継という息子がいたという。ドラマでは見かけなかったけど、実衣にはまだ孫が残っていたことになる。
また、阿野全成と実衣(阿波局)のあいだには娘もいて、藤原公佐に嫁いで子孫を残しているという。
頼朝の弟に嫁いだ彼女の人生が、波乱に飛んだものだったことは間違いないとしても、晩年に全てが虚しかったのではないと思いたい。
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ドラマ外の話になるけれども、阿野全成役だった新納慎也さんが、Twitterで「#天国の全成の声」というハッシュタグで、まだドラマの中で生きて頑張っている実衣たちに、全成としてエールを送っておられるのを楽しみに読んでいる。
他の役の方々とのやりとりも面白い。
演技が終わってしまってからも、視聴者に夢を見せてくれる俳優さんたちの心遣いが嬉しい。
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ドラマの終幕と人生の終わりが近づくにつれて、義時の顔が、ますますドス黒くなってきた。
時政を失脚させた時には、まだ肉親の情から涙を流すような一面を見せていたけれども、甥の時元を躊躇なく死に至らしめ、妹の実衣に耳鼻を削ぐなどの残虐な刑を与えることも厭わなかった。
政子が尼将軍として立たなければ、おそらく実衣への刑罰も行われていたのだろう。
非情な独裁者のように振る舞うドラマの義時だけれども、ドス黒い顔の内側にあるのは、権力欲などではなく、人間不信と孤独のように思える。
実際、執権になった義時の周りからは、どんどん人が離れている。
自分に心を寄せず、朝廷や後鳥羽上皇にばかり目を向けた挙句、殺されてしまった甥の実朝。
実朝だけでなく義時をも殺して三浦一族を押し上げようとした義村。
三浦義村の手を借りて義時を排除し、自分の息子を鎌倉殿にしようとした妹の実衣。
義時を都合よく利用して成り上がることしか考えていない後妻ののえ。
政(まつりごと)で義時と対立することを隠そうともしない、嫡男の泰時。
本当に、義時のそばには誰もいなくなってしまった。
義時が、実衣の処刑を止めようとする時房や泰時に激しく苛立っていたのは、自分を裏切った実衣に心を寄せる二人に対して、強い怒りと失望を感じていたからのようにも見えた。
運慶は義時に向かって、迷いのないつまらない顔だと言っていたけれども、内に抱え込んでいる孤独には気づかなかったのだろうか。
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後鳥羽上皇は、結局自分の親王を鎌倉にはやらず、かわりに頼朝の妹の血を引く三寅(藤原頼経)が、四代目鎌倉殿として迎えられることになった。
そして、まだ幼い三寅を後見する政子が、尼将軍として政を代行することになる。
このときの政子は従二位で、従四位下だった義時よりも、位が高かったことになる。
ドラマの義時は、政子の意向を無視することが多い反面、政子が主体的に動こうとしないことに苛立っているようなところもあった。
思えば義時は、頼朝を伴侶に選んだ政子によって人生の道筋を決められて以来、姉夫婦を支え続け、子や孫の代まで尻拭いをしてきたようなものだった。
頼朝亡き後も、身内への非情な判断を下すのはいつも義時で、姉の政子は義時に言われるままに動くことはあっても、能動的に支援することは、あまりなかったように思う。
義時にとっての政子は、子どものころからずっと、甘えたい時に甘えさせてはくれない、横暴な姉だったのかもしれない。
政子を詰り、皮肉な言葉をぶつける義時には、弟の自分を顧みることのない姉への恨みがこもっているようにも感じられて、切なくなる。
大切に思う人々を失い続けるうちに、いろいろなことを諦めて非情になり、孤独を深めていった義時。
争いの中で次々と家族を失いながらも、手のうちにある命を守ることを決してあきらめずに生きるうちに、人々に慕われる暖かな求心力を持つに至った政子。
最終回まであと少しだけれども、政子は弟の義時を孤独から救い出せるのだろうか。
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毎度蛇足の歴メシコーナー。
今回は飲食関連のシーンが複数あった。
まず、政子による施餓鬼。
色のついた丸餅のほか、たけのこ、かぶなどが見える。
布の袋で配られていたのは、米だろうか。
丸餅は、白のほか、薄いピンクのものと、薄緑のものがあったようだ。
色のついた餅というと、富士の巻狩りの「矢口祝い」の儀式で、万寿(頼家)が齧っていた、赤、白、黒の三色餅を思い出す。
「鎌倉殿の13人」(23)狩りと獲物 - 湯飲みの横に防水機能のない日記
「矢口祝い」の餅は、濃い茶色と黒色で、それぞれ原材料の赤米と黒米の色だと思われた。
施餓鬼の餅の色はそれよりずっと淡かったので、白米に何かを混ぜているのだろう。薄緑はヨモギなどの植物だとして、薄いピンクの素はなんだろう。
白、赤、緑というと、ひな祭りの菱餅の配色でもある。菱餅の赤色は、古くはクチナシで色付けしたらしい。
クチナシによる餅の色付けが、いつごろから行われていたのか知りたくて、いつもお世話になっている古事類苑データベースで、「梔子(くちなし)」を検索してみたら、「本朝食鑑」という江戸時代の食物本に「粽(ちまき)」の調理法についての記事が出てきて、そのなかに、「或用梔子汁而染」という一節が見えた。
「粽(ちまき)」の作り方は、「和名類聚抄」という、平安時代の辞書にも出てくるらしいのだけど、iPhoneでは調べきれないので、宿題にしておこうと思う。
義時が食事をしながら、のえと夫婦喧嘩をするシーンがあった。玄米ごはんと、カブのような白いもの、焼き魚っぽいものが見えたけれども、詳細は不明。
そのあと、二階堂行政が、自分のひ孫の政村を義時の後継にするために、のえに、三浦義村に相談するように言いつけるシーンでは、行政が白い焼き物の椀で何かを飲んでいた。
そばに、ドラマの後半からよく出てくるようになった水注があったけれども、中身は不明。
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ドラマも残すところ、あとわずか。
こんなに一生懸命、大河ドラマを見たのは初めてなので、終わってしまったら寂しくなりそうだ。