長女さんの心理療法の付き添いで、朝から小一時間、精神病院の待合室に座っていた。
長女さんがセラピーを受けている間、本でも読もうと思っていたのだけど、すぐ横で繰り広げられている家族の会話が耳を占拠するので、本の内容がちっとも頭に入ってこない。
「なんで、何も食べてないって言うんだよ。食べてるだろ?」
「食べてないもの」
「食材の配達で、食パンニ斤とか、あんパンとか芋パンとか、山ほど頼んでるだろ。それ、どうしたんだよ」
「知らない。食べ物が何もないから、食べられない」
「戸棚に缶詰がたくさん入ってるだろ。パンがないなら缶詰食べればいいだろうが。何で食べないの?」
「そんなのあるの、知らない」
「あるんだよ。自分で大量に買ってるんだよ缶詰を。山ほど届いたパンだけ、あっという間に食べちまって、何もない、食べてないって言ってるんだよ」
「食べてない…思うんだけど…」
「食べたものを書いておけって、前から言ってるだろ。何で書かないの?」
「何回かは、書いたような気がするんだけど…」
認知症外来を受診する母親と、付き添いの息子なのかなと想像した。
ずっとこんな感じの詰問と応答が耳の脇で続くものだから、だんだん心が苦しくなってきたので、なんとか読書に逃げようと思うのだけど、活字を見ても意味が頭に入ってこない。
仕方がないので、読もうとしていた「あなたの脳のはなし」(デイヴィッド・イーグルマン著)と写し書きを始めた。
アメリカ全土で1100人以上の修道女、司祭、修道士が、脳の老化の影響を探るためのユニークな研究プロジェクト「修道会研究」に参加している。
修道女や司祭ということは、カトリックなのだろうか。
なんか映画「天使にラブソングを」に出てくる老齢のシスターたちが、歌って踊りながら脳ドッグに入る姿が思い浮かんでくる。あの映画では認知症っぽいシスターがピアノ担当だったけど、物語が進むにつれて、だんだん演奏の切れ味がよくなってきていたっけ。
この研究はとくに、アルツハイマー病のリスク要因を探り出すことに注目しており、被験者のなかには、症状も測定可能な兆候も示していない。65歳以上の人もいる。
チームは研究を始めたとき、アルツハイマー、脳卒中、パーキンソンという、認知症の最も一般的な原因である三つの疾患と、認知低下のあいだに明確なつながりが見つかると予想していた。
ところが、アルツハイマー病による損傷で蝕まれた脳組織があっても、本人は必ずしも認知障害を経験するとはかぎらないことがわかった。
本格的なアルツハイマー病を発症しているのに、認知障害を起こさないまま一生を終えることができるというのは、アルツハイマー病のリスクを抱えている方々にとっては、大変な福音ではなかろうか。
一体、どうしたらそんなことになるのか。
チームは手がかりを求めて、基本のデータセットに立ち返った。そしてベネットは、心理及び経験的な因子が認知障害の有無を決めていることを発見した。
具体的に言うと、認知力の関連、つまりクロスワードパズル、読者、運転、新しい技術の学習、責任を負うことなど、脳を活発に保つ活動に予防効果がある。
社会的活動、社会的なネットワークと交流、そして身体活動も同様である。
裏を返せば、孤独、不安、抑鬱状態、心理的苦痛の多発など、ネガティブな心理要因が急速な認知低下と関係していることがわかった。
簡単に言い換えるなら、「幸福で充実した暮らしを送っていれば、アルツハイマー病になっても認知症にならない」ということか。
罹患神経組織はあるが認知症状がない被験者は、「認知予備能力」と呼ばれるものを構築している。脳組織の一部が変性するとほかの領域がよく働いて、結果として変性した領域の機能を補ったり、引き継いだりする。
壊れてしまった脳の組織を補うために、無事な組織が頑張るのか。
一般的には、社会的交流などの難しくて新しい課題を与えることによって、脳の認知を鍛えれば鍛えるほど、神経ネットワークがAからBに到達するための新しい経路がたくさんつくり出される。
社会交流か。
人に会うととても疲れるし、人間関係で鬱が悪化するから、できれば避けたいんだけど。とくに子どもの学校関係とか。まあ、あと一年ちょっとで末っ子が高校卒業するから、それも終わるけど。そしてコロナのおかげでこの2年間学校行かずに済んでるけど。そのことだけは、COVID-19に少しばかり感謝している。
でも教会学校は、疲れない。毎週楽しみだったりする。
自分に合う場所に行って、鬱にならないような人々と交流すればいいのだろうな。
写し書きのおかげで、多少読むことができたけど、横ではずっと厳しい「会話」が続いていた。
「でもね、本当に食べ物がないんだもの…」
「だったら配達の人が買い物抜き取って盗んだっていうのかよ。そんなこと言ってるなら、警察に調べてもらうことになるぞ」
「それは…わからないけど」
「わからないんだろ!? 届いてないっていう証拠もないだろ!?」
「それは…うん」
「食い物は間違いなく届いてる! 俺も見てる! つまり自分で食べてるんだよ!」
「でも、わからないのよ…」
息子さんの苛立ちは、理解できる。
母親のために欠かさずに食料の手配をしても、「食べ物が何もない」と言われ続けていたら、そりゃ頭に来るだろうし、虚しくもなるだろう。
だけどこのような詰問は、デイヴィッド・イーグルマンに言わせれば、「ネガティブな心理要因」を増やして「急速な認知低下」をもたらす
だけなのじゃなかろうか。
だって、横で聞いているだけの私ですら、書き写しをしなければ本の内容が全く頭に入らなくなるほどの、深刻な認知能力の低下を食らってしまうのだから。
じゃあ息子さんはどうすればいいのか。
私なら、どうするだろう。
巨大な模造紙を買ってきて、絵を描くかな。
大量のパンと、缶詰の。
それをめっちゃ笑いながら食べている母親と、ちょっとキレかけてる自分の姿の。
あと、筆と墨で、
「食べればなくなる」
って、でっかい字でお習字して、絵と一緒にダイニングキッチンにバーンと貼るかも。
それでどうなるかはわからないけど、延々と続ける詰問よりは、お互いの脳にいいような気がする。