こんにちは。
ふにゃもらけ(携帯のゲームアプリ)は、ぬいぐるみ製作イベントがはじまった。
つい先日、人形やぬいぐるみを数百個も処分したこともあって(ゴミ袋のなかのトトロやメイちゃんの姿が目の裏に焼き付いている…)、なんともいえない気持ちだけれど、ネットのなかのぬいぐるみなら、場所もとらないし、古くもならないから、いつまででも「手元」における。
少なくともゲームのサービスが終了するまでは。
(´・ω・`)
それに、手放したものたちとも、なんらかの形でまた巡り会うこともあるかもしれない。
突き詰めれば人の身体もぬいぐるみも、素粒子だかなんだかが集まってできたものだし、分解すればそういう宇宙の材料に戻るわけで、いま飲んだジャスミン茶が古代の人が流した涙を作っていたのと同じ原子を含んでいるなんてことだって、頻繁に起きているのかもしれない。
手放したといったって所詮は地球の上のことで、アンドロメダ星雲だの別次元だといった途方もない場所に射出したわけでもない。結局はずっと同じ時の流れの中にいるのだから、手放す前と特になにも変わらないのだとも言える。質量普遍の法則だ。(違
まあ、なんだかんだで、家の中は少しづつ片付きつつある。
今朝は目が覚めたら扁桃腺が少し腫れて痛かった。
熱はないし、のど飴など舐めながら静かにしていたら痛みが少し引いたので、処分する本の選別などしている。まとまった量になったら(もうなってるけど)、またブックオフに売りに行こう。
(_ _).。o○
Yahoo!の質問箱だったかで、
「断捨離をしたら、統合失調症が治りますか」
という質問をしていた方がいた。
経緯はわからないけれど、患者さん本人からご家族の方による質問なのだとしたら、我が家のように、物の多さが患者さんのストレスになっている状況なのかもしれない。
「好きなものが何なのか、分からなくなる」
不登校のはじまった小学校高学年のころから、長女さんは時々そんなことを言うようになった。
それまで大切にしていたものに突然見向きもしなくなったり、時間をかけて作った手芸品をゴミ同然に扱ったりすることが度々あって、それがいつしか、自分らしく思えないものをゴミ袋かレジ袋に詰め込んで「片付けて」しまうと言う形に変わっていった。
小学校時代から、うつ病とされていた長女さんだけれど、不思議なことに、通信制高校のスクーリングや、海外研修に行くと、自宅で過ごすのとは別人のように元気になっていた。
海外は、高校時代にカナダでの一週間のホームステイ、専門学校時代にロサンゼルスで一週間のホテル住まいを経験している。バンクーバーで迷子になったときには、適当にその辺の店に飛び込んで、片言の英語とジェスチャーでなんとかしたと言っていた。
良い体験をして無事に帰ってきたことは喜ばしく思ったものの、普段は近所のショッピングモールに出かけるのさえストレスを恐れて臆することも多いのに、一体どこからそんな行動力が出てくるのかと、不思議に感じたものだ。「ほんとうにうつ病なのか」とも。
けれども、そんな思い出も、長女さんのなかで「自分らしい記憶」、あるいは「自分らしさを形作る要素」として保存されることはなかったのかもしれない。当時の思い出の品らしきものも、レジ袋などに粗雑に詰め込まれ、ゴミのように部屋の隅に放置されていた。
統合失調症という病気が、脳のなかでなにをしているのか、無知な私にはわからない。
考えの筋道を作ることが難しくなるというような説明をいろいろな本で読んだけれども、それは妄想などを説明するもののように思えた。
「自分」らしさを統合することが難しくなる。
そういう、解離性障害に近い側面もあるのじゃなかろうか。
小学校の頃からの長女さんの様子を思い返していると、発病の根幹にあるのは、パーソナリティとかアイデンティティの根幹に関わる困難さであるように思えてならない。
それは、投薬治療でどうにかなるものなのだろうか。
薬で「自分」を作ることなど、できるのだろうか。
分からない。