湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

物語のなかの料理メモ

信長協奏曲」(石井あゆみ 著)の新刊が出ているのに気づいたので、さっそくKindle版をダウンロード。

 

 

 

表紙の絵が怪しさを極めた秀吉のアップなので、いよいよクライマックス(本能寺の変)に向けて事態が緊迫してくるのだろうと覚悟してページを開いたのに、のっけに出てくるのが前田利家の、

 

「それがしを抱いてくださりませ!」

 

発言だったので、がっくり脱力した。

 

迫られた信長は、仕方なく家臣団を並べて順にハグしていく。蘭丸は感激のあまり立ったまま気絶していた。

 

歴史上の信長に「君臣一体」っぽい男色エピソードがあるのは多少知っているけど、この作品の信長(中身は現代日本からタイムスリップしてきた高校生)に、そのケは全くなく、想定外の発想と行動力で、周囲の人々を魅了している。

 

徳川家康もその一人で、今回の巻では、天正10年5月に安土城を訪れたところ、信長が自ら揚げた「鯛の天ぷら」(衣なしで揚げていてから実質的には素揚げ)を食べて、若い頃に食べさせてもらったものと同じ味だと感動していた。

 

その様子を見ていた細川藤孝が、明智光秀(中身は本物の信長)に向かって、若い頃の信長が伝来して間もない「天ぷら」を知っていた不自然さを口にしてカマをかけたけれども、光秀は相手にせず聞き流す。

 

 

「全訳信長公記」(Kindle unlimited)で、このときの記事を探して読んでみた。「畏れ多くも信長公ご自身の膳を並べられ」とあったけれども、残念ながら出されたメニューまでは書かれていなかった。

 

 

 

ウィキペディアによれば、ポルトガルの宣教師が西洋風の揚げ物を伝える前に、奈良時代から平安時代にかけて、米の粉などを衣にする揚げ物が中国から伝来していたという。

 

古代に中国から伝来した揚げ物が、その後どの程度普及したのかはわからない。「信長協奏曲」では、油がふんだんに使われる様子を見た人々が、その贅沢さに驚嘆し、織田家からだからできることだと言っていたけれども、それほど油が貴重だったなら、日常的な調理法として定着するのは難しかったことだろう。

 

でも江戸時代に入ると、天ぷらの屋台が出回るほど、揚げ物は普及する。油の生産量が急に増えたのだろうか。

 

と思って調べてみたら、江戸時代に入ってから、菜種や綿の大量生産が始まり、菜種油や綿実油(めんじつゆ)が多く出回るようになったとウィキペディアの「植物油」の項に書いてあった。

 

そのおかげで信長の時代には贅沢品だった天ぷらが、江戸の人々にとってはファストフードとして親しまれるようになったのだろう。

 

晩年の本物の家康は、江戸で鯛の天ぷらを食べることができたのだろうか。

 

 

家康を安土城で饗応した翌月に、本能寺の変が起きて信長は死ぬ。

 

映画「信長協奏曲」の信長は、現代に帰還していたけど、原作ではどうなるのだろう。