今日は再び万葉集。巻十二。
前回の伊勢物語の軽薄ナンパ男の歌に食傷したから、もう少し純な歌を。
妹門 去過不得而 草結 風吹解勿 又将顧
一云 直相麻弖尓 (3056)
いもがかど ゆきすぎかねて くさむすぶ
かぜふきとくな またかへりみむ一云 ただにあふまでに
軟派度および思わせぶり度は、ゼロ。
真剣味、かなり高め。
甘酸っぱさ、八十パーセント。
自己陶酔度、ちょびっと。
ストーカー傾向、若干(まあ健全な範囲)。
「思いの乱れ」度数、ゼロ。
そして、不審な点、複数。
まずひっかかるのは、相手の女性を「妹( sister もしくは婚約者、妻)」と呼びながら、ステディな関係ではなさそうなところ。
彼女が婚約者や妻であれば、家の前で草なんか結んでないで、とっとと中に入るだろう。
けれども彼はとりあえず、彼女の家の前を「行き過ぎ」ようとしている。どうも気軽に会うというわけにはいかない間柄であるらしい。
「草結ぶ」というのは、辞書によれば、「男女の長い結合」や「長寿」などを願って行う行為であるらしい(岩波古語辞典より)。
作者が、「妹」との「長い結合」を願っているのは、間違いない。
分からないのは、すでに彼らが「結合」しているのかどうか、ということである。
どうもこの二人、未結合なんじゃなかろうかという気がする。
「一云 直相麻弖尓(ただにあふまでに)」という但し書きがくっついているのも、「ただにあふ(直接会う)」状態に至っていないと考えるのが自然だと思う人が、古代にも多かったからではなかろうか。
けれども、全く会ったことがないかというと、それも違う気がする。ためらいなく「妹」と呼ぶ以上は、互いの気持ちを確かめ合うぐらいの経緯はあったのではないか。
もしかしたら、二人は幼なじみで、会って遊ぶうちに仲良くなって、「大きくなったらお嫁さんに」なんて約束を無邪気に交わしたりしたのかもしれない。そして、少なくとも少年のほうは、その約束を、大人と呼ばれる年頃になっても、変わらずに持ち続けていたのではないか。
少女のほうの気持ちは、この歌からは分からない。けれども歌のなかに、作者が彼女の心を疑う気持ちは微塵も無い。ただ一途に思い、引き離されないことを祈っている。
この歌、作者が誰で、どんな人かも分からない。でも、かなり若い人のような気がする。
多く見積もっても、上限二十四歳まで。ただし、美少年系の童顔ならば、それ以上でも可としておく。だって、いい大人が、ひとんちの前に一途な顔でしゃがみこんで、草なんか結んでたって、キモチ悪いだけでしょう。彼女は引くだろうし、場合によっては通報されちゃうかもしれない。
《意訳(誤訳)》
誰にも言わず、心に決めた。
生涯の恋人は彼女一人。
彼女だけが、僕の妻になるはずの人。
逢いたくて、彼女の家のほうへいく。
ありもしない用をつくって、彼女の家の前を通る。
門のむこうに彼女の姿が見えることだけ期待して。
偶然はいつだって僕に味方しない。
今日も姿は見えなかった。。
こんなところに立ち止まっていたら、
家の人に変なヤツだと思われるだろう。
なのに、立ち去ることができない。
門の前で、道端の草を結び、祈った。
僕達が、永遠に結ばれて、
引き離されることのないように。
この草を、また見に来よう。
彼女が本当に僕のものになる日まで、
冷たい風が、この結び目を解かないように。
ちと少女漫画風の挿絵が欲しくなるようなシチュエーションである。
「門」の前を通り過ぎるとか、通り過ぎられないとかいう発想の歌は、他にもいくつかあるようなので、またの機会に調べてみることにする。
それと、恥をしのんで蛇足をくっつけると、私、この歌はなんとなく人麻呂作だと思いこんでました。「妹」との関係のせつなさ具合に近いものがある気がしたんですけど・・・・・。
(2005年05月16日)
※過去日記を転載しています。
※別ブログにも同内容の記事を掲載していますが、こちらのブログにまとめる予定です。