和歌解釈や過去日記の転載作業に少し疲れた(飽きたとも言う…)ので、読書で小休止することにした。
山口博「王朝貴族物語」講談社現代新書
奥付に「一九九四年六月二十日 第一刷」とあるので、出版されてすぐに、亭主が買ったのだろう。
私は読んだ記憶がない。
1994年というと、今からちょうど30年前で、長女さんが生まれる2年前になる。古典文学は好きだったけど、今ほど楽しむこともなく、そもそも歴史音痴だったから、家にあっても手に取らなかっただろうと思う。
万葉集に親しむようになったのは、いまから19年前、末っ子が生まれた年だった。きっかけは忘れたけれど、和歌の独自解釈をして、【意訳】と言う名の怪しいコントをを書くことに猛烈にハマって、2ヶ月ほどで60本ほどの記事を書いた。
それらの記事を読み返してみると、基礎知識の足りないところが目について恥ずかしくなる。今だって全く足りていないけれど、19年前はほんとうに酷かった。😓
子どもたちもみんな大人になって、だいぶ手が離れたので、今度こそちゃんと知識を補充したいと思い、たまたま書架で目についた本書を手に取り、読み始めたのだけど…
いきなり謎の記述に遭遇した。
律令制度によって定められた、官僚の給与の種類に、現代のボーナスにあたる「季禄」というものがあるのだけど、それで現物支給されるものが、「布・綿・鍬」となっているのだ。
官僚に支給するボーナスが、鍬(くわ)?
ちなみに、鍬一本は、米三束(約六升・9キログラム)相当なのだという。
いまのお米は、1キロあたり800円くらいだろうから、それをそのまま当てはめると、鍬一本あたり、7200円ほどということになる。
鍬の値段として高いのか安いのか、よく分からない。
ためしにAmazonで「鍬」のお値段を見てみたら、だいたい2000円から3000円台のようで、7000円もする鍬は見当たらなかった。奈良、平安時代の鉄製品は、いまより価値が高かったのだろう。
それよりも気になるのは、官僚たちが、現物支給された鍬を、そのあとどうしたのかということだ。
貴族たちは、位や官職に応じて田を与えられていたようだから、そこに持っていったのだろうか。あるいは近場で売ったか、米などと交換したか。
ボーナスでもらった新品の鍬を、平安貴族が嬉しそうに担いで帰ったのだとすれば面白すぎるけど、さすがにそれはないだろう。
本書はこのあと、藤原兼家の出勤風景の話に移ってしまい、鍬のその後の始末については、残念ながらスルーされていた。
年に2回、官僚たちのボーナスとして配布できるほど、朝廷に鍬のストックが大量にあったのはなぜなのか…
鍬の謎を頭で転がしているうちに、当時の税が米以外のもので収められることも多かったというのを、ふと思い出した。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ながら、調べ物で遊んでいた頃だったか、海産物の干物や工芸品などを税として収めているという話を見かけて、朝廷というのは、ある意味では物流を担う商社みたいな役割も兼ねていたのかしらと思ったりしたのだ。
で、検索してみたら、税の種類である租庸調のなかの、調の代用として、調雑物という区分があり、 鉄、鍬(くわ)、塩、海水産物などが収められていたという情報を、コトバンクで見つけた。
鍬は納税された品だったのだ。
どこの誰が、鍬を作って納めたのだろう。
「平安時代 鍬 租庸調」などで検索してみたら、岡山県古代吉備文化センターのホームページで、関連記事を見つけることができた。
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636849.html
奈良県平城京の跡から、 天平17年(745年)に、備前(岡山県東南部)から鉄鍬を送ったと書かれた木簡が、出土しているという。
備前は鉄の産地だったのだ。
鍬以外の鉄製品は、ボーナス支給されることはなかったのだろうか。
剣や槍とか。
武器の拡散は危険だから、ばら撒きはしなかったのだろくか。
と思いつつ本書を読み進めていたら、「王朝エコノミック・アニマル」という章に、太宰府に保管されていた武器を無断で契丹国に売却した、藤原伊房(1030-1096)という人物の話が出てきた。
Wikipediaによると、伊房は、白河天皇に仕えて賢臣と言われていたのに、後拾遺和歌集の清書を頼まれた時に、自分の歌を二首、勝手に書き足したのがバレて、書き直しを命じられたのに逆ギレして、清書係をやめたのだとか。
なんとなく、息をするように抵抗なく不正を行ってしまう人物像が、目に浮かんでくる。
平安時代は、高官の不正行為が当たり前だったようだけど、国有の武器を他国に売ることや、勅撰和歌集の内容を無断で書き換えるというのは、税のピンはねや贈収賄とは、次元が違う不正のように思う。
太宰府に備蓄されている武器を他国に売って、その他国が攻めてくる可能性を考えなかったのだとしたら、頭にお花畑が広がっているとしか思えない。
また、勅撰和歌集を無断で書き換えるというのは、選者たちの渾身の努力をあっさり踏みにじり、編纂を命じた天皇の威信をも傷つける行いである。
倫理観の壊れた人物だったのだろう。
歌人としては優れていたらしいけれど、残念な人だ。
藤原伊房が生まれる少し前になるけれど、「刀伊の入寇」(1019年)という大事件が起きている。女真族と思われる集団が、対馬や壱岐に押し寄せて、大勢の住民を殺害し、拉致して行ったのだ。
この時、朝廷は街道の警備強化を決定したけれど、「小右記」の執筆者である藤原実資は、100年以上前の新羅入寇の事例を上げて、さらなる広範囲の警備強化や、戦闘で功を上げた者への恩賞を提案したという。
この記事を見て、私のなかで、実資の評価がますます上昇している。「小右記」の現代語訳が届くのが、楽しみでならない。o(^▽^)o
できれば「明月記」も欲しいなあ…などと昨夜呟いていたら、亭主が、お手頃価格の中古の訓読本を見つけたので発注すると言っていた。「定家自筆の影印本も、いるか?」と言っていたけど、そっちは多分すごいお値段のはずだし、さすがに私では読めないだろうと思うので、遠慮した。
ずっと前に、博物館で見たことがあるけれど、定家の自筆って、かなり「面白い」感じの癖字なのだ。流麗な草書よりは、まだ読みやすいかもしれないけど、訓読した活字本で十分だ。というか、それで手一杯だと思う。
老後の楽しみが、どんどん増えていく。☺️
これはもう、本気出して長生きしないといけないようだ。
持病がこれ以上悪化しないように、来年こそは、体力回復と健康管理、頑張ろう。