長女さん(8歳)が公文の教室からもらってきたプリントに、斎藤孝の「ガツンと一発」シリーズという本から引用したという「口にしちゃあ なんねえ リスト」が掲載されていた。
それには、
「ムカツク・キレル・ウザァーイ」
の三語がトップにあげられていて、次のような解説がついていた。
事件を起こす子、問題を起こす子は兆候が有るのです。そのサインが言葉に出てきます。あの佐世保の事件の女の子は「ウザァーイ」を使っていたそうです。
<だめなわけ> 自分にまとわりつくものを振り払いたい、出来るなら消し去りたいという気持ちを表している言葉だから、それを言うとその感情がドンドン大きくなるからです。
「ウザイ」「ウゼエ」という言葉が目や耳に入り出したのは、1990年代以降だったように思う。
もっと前から広まっていたのかもしれないけど、私の周囲で使う人はいなかった。
「邪魔だ」「不快だ」「うっとうしい」などでは表現しきれない、対象への反感や反抗心、自身のアウトロー的な立場の表明など、さまざまな要素を含んでいるので、使いどころのある人にとっては、便利な言葉なのだと思う。
私自身は、使いどころがないので、まず使うことはない。
引用文中にある「佐世保の事件」というのは、2004年6月に起きた、小学生の女児による殺人事件のことだと思う。
事件の凄惨さに加えて、加害者の子の発達障害の有無が取り沙汰されたこともあり、発達障碍児の親としては、胸が塞がるような事件だった。
「ウザァーイ」という言葉を使うことが、問題を起こすことの兆候であるかどうかは、少なくともその言葉が使われている状況や、使っている子どもの状況などを、よく見極めた上でないと、考えられないことだし、言うべきではないことだと思う。
特定の言葉を使ったというだけで、殺人者予備軍だなどと決めつけられては、たまらない。
言葉を封じる前に、なにが「ウザイ」のかを話してもらって、「どうすればウザくなくなるのか考えて行動してみよう」と促してたいところだけど、問題を起こす可能性のある子どもの周囲に、その手間をかけることのできる大人がいないことが問題なのかもしれない。
(2005年06月15日)
※過去日記を転載しています。