こんにちは。
上の画像は、末っ子に誘われて始めた「ぶるぶるどーぶつ」というパズルゲーム。
謎のどーぶつの幼体を育成しながら、パズルを解いていくのだけど、放置時間が長いと、どーぶつが身体を壊してしまい、最悪の場合死亡する。☠️
一応救済方法はあって、ゲーム内のフレンドが、ヤバい状態のどーぶつをケアしたり、蘇生したりすることが出来るようになっている。
そういうわけで、末っ子が大学で講義を受けている間、私がせっせと末っ子のところのどーぶつに食事をさせたり風呂に入れたり、病気になったら薬を買って飲ませたりしている。まるで孫の世話に駆り出されるばーちゃん状態だ。
実人生では叶わないかもしれない孫の世話をバーチャルで先取りしているような具合だけど、それはそれで面白い気がしなくもないから、しばらくは遊び続けることになりそう。
(_ _).。o○
ちまちまと、19年前(2005年)の過去日記の転載作業をしていたら、ここのブログ記事の総数が2500になっていた。
当時の日記は子どもたちに関することが八割、読書や古典文学関連が一割、その他雑談が一割という感じ。しんどいことがあった日や、疲れている日ほど、日記の更新頻度が高くなり、字数も多くなっている。疲れて書けないという日はなかっま。四十代の自分はタフだったんだなあと、つくづく思う。
2005年、小学3年生だった長女さんは、持病のために、学校を欠席することが多く、登校しても早退することも多かった。
勉強の遅れが心配で、進研ゼミの通信添削をやってもらっていたけれど、教材が届くと、一日か二日ほどで片付けてしまっていた。
過集中と、「〜しなければならない」という強いこだわり。他にもいろいろ。
いまの私なら、自閉症の可能性が頭をよぎっただろうけど、当時は微塵も疑わなかった。長女さんの特徴的な振る舞いは、子ども時代の私と重なるものが多かった。私が自閉症じゃないのだから、長女さんも自閉症のはずがない……なんて思っていたけど、その十数年後に私自身が病院で「ADHD、幼少期のエピソードなどから自閉症の可能性あり」と診断されるとは、想像もしなかった。😱
病気療養で欠席が多いというハンデを抱えた長女さんは、クラスではなぜか人気者で、たまに教室を覗きにいくと、いつも人だかりの真ん中にいた。
下の日記は、長女さんが描いた山水画っぽい風景画をクラス中の子が欲しがって、20枚ほどを量産していたことを書いている。
その絵は残念ながら保存しておらず、写真も残っていない。当時の長女さんは、毎日大量に絵を描いていたから、親の私も保存に気を使うということをしなかったのだけど、今になってとっておけばよかったと後悔している。
下の日記は、青森の親戚に送ってもらった「気になるリンゴ」というお菓子を、息子が大喜びで食べたことを書いている。
「気になるリンゴ」はいまも販売しているようで、Amazonでも売っていた。一個998円。懐かしいので、そのうち買ってみようかな。
下の日記は、青森の叔母から電話をもらったことを書いている。
青森生まれではあるけれど、言語形成期に他県に在住していたために津軽弁話者ではなく、他の方言も使えない(ヒアリングはできる)私には、津軽弁のネイティブスピーカーに対して強い憧れがあり、若い津軽弁YouTuberさんたちの動画をみながら、羨ましく思ったりもする。
ヒアリングが出来るのだから、真似して練習すれば喋れるようになるだろうとは思うのだけど、練習して身につけだとしても、生活に根付いていない言語は所詮偽物、付け焼き刃にしかならないという思いがあって、練習する気にならなかった。実際、亡き祖母や叔母たちの、壮大な叙事詩のような語りの力は、生まれた時から津軽に住んでいたからこそのものだと思う。
万葉集の読解と意訳の記事も、日課のように書いていた。当時は、毎日一首づつ攻略して、いずれ万葉集の全首(4000ちょっと)をコンプリートしよう、なんていう野望を抱いていたけれど、何事も継続できない私だから、いまだに百首の大台にすら乗っていない。
いまから再開したら、生きている間に全首読めるだろうか。
下の日記は、息子の特殊学級での様子などを書いたもの。
この翌年の2006年から、特殊学級は特別支援学級という名称に変わるのだけど、なかなか口に馴染まなかったのを覚えている。