⭐︎過去日記を転載しています。
青森に住む叔母から、りんごのお菓子を戴いた。商品名は「気になるりんご」。
焼きりんごが、まるごとパイになっている、なんというか、青森らしい、大胆不敵なお菓子である。
これを、息子(7歳・重度自閉症)が猛烈に気に入った。パイ生地の皮を剥いて、中身の焼きりんごだけを、まるごと一個、世にもしあわせそうな顔で、食べた。
叔母に、お礼の電話をかけた。
おそらく叔母は、私から電話があることを予期して、語りのシナリオを、前もって作っているのではないかと思われる。
「もしもし」を言い終わるやいなや、流麗な津軽弁の一人語りがスタートして、その後は私の口を挟む余地はすでになかった。
私はこの、津軽の女性の一人語りモードを、子供のころから敬愛している。
緩急とピッチの高低を見事にあやつり、己の生き様を滔滔とうたい、日常の瑣末事はちょっとオチャメに物語り、相手に贈るための情愛はたっぷりと汁がしたたるごとく盛り付け、供する。そんな語りである。
私には、彼女たちの語りの背後に、どこかシュールなアンバランスを感じさせる夏の陸奥湾の光景や、どこに何があるか分からないほど雪に埋もれた町を占領し蹂躙しまくる地吹雪の音までが、まざまざと見え、聞こえてくるのである。
七十代の叔母は、ずっと九十過ぎの祖母を介護してきた。最近、祖母がホームに入所して、そのホームが遠いので、あまり足しげく通うことができなくなっているという。そのことが、伯母の負担を軽くする一方、心の張りを奪いつつあるという意味のことを、伯母の語りは伝えていた。
だからこそ、と伯母の語りに力がこもる。
インターネットを通して届く、私たちの家族の写真、子供たちの写真が、生きることの意味が濃密さを失わないための、大きな力を持つのだと。
なんか、とんでもないことを言われた気がした。
叔母は、生きることの意味の薄れに直面しているのだろうか。そして、それを、叔母たちがまだ会ったことのない、我が家の幼い命が支えているのだろうか。
末っ子(生後5ヶ月)が生まれて以来、私がせっせと撮り溜めている、数千枚のデジカメ写真は、仙台の私の母を経由して、青森方面に流れているという。
写真を撮ることは、私にとっては多重の意味を持つ。
恣意的に、そして執拗に、記録をとること。
確実に失っていくものの影を、強引に残すこと。
その残した影すら、いずれ意味や価値を失い、消えていくであろうということを、確認すること。
以前は、もっと単純に、気に入った人や家族の写真を撮ることが好きだった。撮影することの意味が妙な具合に多重化していったのは、息子の障害が分かってからである。
ある人は、子供が重度の知的障害であると分かってから、数年間、家族写真を撮らなかったそうである。
「いたたまれなくて」という言葉で、その人は説明していた。
私はそれを聞いて、一層たくさん写真を撮ろうという気持ちになった。
当初は、他ならぬ親が、子供の成長を「いたたまれない」と思わずにはいられないという残酷な事実を、撮影によって粉砕したいというような、どこか反抗的な、短絡的な発想だった気がする。
けれども、撮影と、撮り溜めた写真が、何かを粉砕するということは、ついぞなかった。「いたたまれない」という感情は微動だにせず、成長するあか坊に伴走しつづけている。
ただ、それは、積もる月日や写真の山によって、相対的に、どんどん「小さなもの」になっていき、いまではすっかり「どうでもいいもの」となっている。
写真が切り取って残すのは、私自身の視覚記憶の一部である。私は恣意的に撮影のタイミングを選択するから、写っている息子は、私がもっとも「見ていたい」あるいは「見たいと思っていた」息子であり、その時々の成長の象徴的なシーンでもある。長女さんや末っ子の写真も、基本的にはそうである。
写真の山は、折に触れて見返す私を幸せにする。もちろんそれが、「作られた写真集」であることは了解しているし、自分をペテンにかけているようなものであることも、分かっている。家族写真の常として、家族以外、身内以外の人にとっては無価値の山を築いているのと同様であることも理解している。
時折、ふと幻影が見えることがある。
私が「いなくなった」あと、アルバムの山や、写真のデータ、息子の療育に使った膨大なカード、人形やオモチャの山が、まとめてゴミに出され、回収されているシーン。
私が死ぬのと同時に確実に無価値化するそれらのものを増やして、抱えて、疲れ果てることが、生きるということの現状であり、意味といも言えるのだとすれば、人生なんてゴミの溜まった虚無の器そのものではないかと思われさえする。
私の撮る写真の本質は、結局のところそういうものなのだと思う。
けれども伯母は、その写真によって、生きることの意味を濃厚にしていると語る。
非常に、困った気持ちになる。
しかし思えば私だって、似たような意味で古典を読んだり、本を読んだりしているのではなかったか。
そこに生々しくも人が生きている、かつて確かに生きていたということを知り、彼らの経験した生きることの手触りまでをも想像し、何らかの感情を抱くことが、大きな救いになっているのではなかったか。古典は廃棄されずに残り、私のところへやってきた。私の撮った写真も、ネットをめぐって叔母の家に出現する。
伯母の語りによって、写真の意味が私のところへ帰ってくる。
それで、いいんだろうか。
生きるとかいうことって、そういうことで、いいのだろうか。
いいような気も、してくる。
叔母の語りは、次のような意味のフレーズで、締めくくられた。
生きているから、いろんなことがある。
ほんとうにいろんなことが。
でもそれが、生きているということだから。
だから、おっけー。
生きてて、いろんなことがあるのは、
ぜんぶ、おっけー。
そうなんですか。叔母ちゃん。