紫陽花の歌は、万葉集に二首だけ。
一つは前回書いた橘諸兄の歌。
もう一首は、大伴家持の歌なのだけれど、意味の分からない語が含まれているため、解釈が定まっていないという。
その後の勅撰和歌集には、紫陽花の歌は収録されず、私撰和歌集や私家集などに少数あるというけれど、確認できていない。
平安末ごろから、少しずつ紫陽花の歌が詠まれ始めたようで、藤原定家の「拾遺愚草」で見つけることができた。
あぢさゐのしをれて後に咲く花のただ一枝は秋の風まて
(あじさいの しおれてのちに さくはなの ただひとえだは あきのかぜまて)
藤原定家 拾遺愚草
定家の歌にしては、凝った作り込みの感じられない素直な歌のように感じるけれども、よく考えると、なぜ紫陽花に「秋の風まて」と願うのか、よく分からない。
暑い夏の間も、庭先でみずみずしい紫色を保って、見る者の目と心を涼ませてほしい…ということだろうか。
それとも、夏の盛りを前にして、枯れた色を見せる紫陽花に、「お前にふさわしいのは夏じゃなくて秋だから、そこまで我慢しろ」と言いたいのだろうか。
あるいは、「見慣れ過ぎて飽きがくる(秋が来る)まで、そこで咲いていろ」ということか。
【怪しい意訳】
鮮やかだった紫陽花が、夏の強い日差しに耐えられずに色褪せて萎れていくのは、寂しいものだ。
だけど今年は、薄茶色の枯れ花の中に、みずみずしく咲く一枝が残った。
その一枝に、私は願う。
どうかこの酷い夏を乗り越えて、涼やかな秋の風が吹く時まで、咲き残っておくれ……
あのさ……時々いるよね、場違いなくらい、急に洗練されて、美しくなる人とか。
あと、晩成型っていうのかな。同世代が伸び悩み始めたころになって、ぐんぐん才能伸ばしちゃう人とか。
そういう人って、見てるとわくわくするよね。
で、このまま変わらない勢いで、いろんな壁を乗り超えて、ずっと素敵さを維持していてほしいなって、思ったり。
まあ、そんな奇跡的な事例なんて、秋まで咲いてる紫陽花よりもレアなんだけどさ。
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さすがに穿ち過ぎだったかも。😓
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