あぢさゐの八重さくごとくやつ世にをいませ吾背子見つつしのはむ
(あじさいの やえさくごとく やつよにを いませあがせこ みつつしのはむ)
右の一首は、左大臣の、味狭藍の花に寄せて詠めるなり。
万葉集 巻第二十 4448
*やつよ(八つ世)……何代もの天皇の御代。
*いませ……「います(いらっしゃる)」の命令形。
*背子(せこ)……女性が夫や恋人、兄弟に対して、親しく呼びかける語だけど、橘諸兄は男性だし、宴会の出席者は部下。頼りになる部下たちを、夫に見立てているのか。
*しのはむ(偲はむ)…賞賛しよう。思い慕おう。
この歌は、755年、右大弁丹比国人真人の自宅での行われた酒宴で詠まれたものだという。
橘諸兄(たちばなのもろえ)は、酒宴で朝廷を批判したという告げ口をされ、翌年に左大臣を辞任。失意のまま、757年に死亡している。
諸兄の死後、息子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、藤原氏の専横政治を覆そうとして謀叛を計画したものの、密告者がいたために事前に発覚。首謀者や、加担した人々の多くが拷問死する。
上の酒宴の場を提供した丹比国人真人も、流罪となった。
その後、謀叛予防のため、無断で宴会を開くことが禁じられたらしい。
橘諸兄は、謀反には賛同していないとされたようだけれども、酒宴で詠んだという上の歌は、解釈によっては、謀反組の活躍を期待している風にも読めるので、告げ口の根拠となったのかもしれない。
【怪しい意訳】
紫陽花が満開だねえ…
若い君たちに、いろいろな思いがあることを、僕は知っているよ。
僕にも、いまの世の中のあり方について、少しは思うところもあるからね。
けれども、僕の一番の願いは、君たちが末長く活躍してくれることなんだよ。
この先、何代もの天皇に仕えて、久しく栄えていってほしい。幾重にも花開く紫陽花のようにね。
そう、何らかの理由で、天皇が次々と変わろうとも、僕が可愛く思う君たちは、ちゃんと朝廷の中枢にいてくれよ。
僕はそんな君たちの姿を楽しみに眺めて、賞賛し続けよう。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
万葉集の編者だったと言われる大伴家持は、橘諸兄と親しい間柄で、酒宴の席で一緒に歌を詠んでもいた。(上の歌が詠まれた酒宴には、家持は同席していない)
そして、橘奈良麻呂の乱の二年後の歌を最後に、家持は、歌を詠むのをやめてしまう(詠んだかもしれないけど、書き残されていない)。
橘奈良麻呂の乱では、家持の身内が何人も刑死していて、その中には家持と親しく歌を送りあっていた大伴池主などもいた。
家持が歌をやめた理由ははっきりしないけれども、橘奈良麻呂の乱がきっかけの一つではあったかもしれない。