今回は、藤原定家の雨の歌。
五月雨の心を
玉ほこの道行人のことづても絶えて程ふるさみだれの空
(たまほこの みちゆきびとの ことづても たえてほどふる さみだれのそら)
新古今和歌集 232
*玉ほこの……「道」にかかる枕詞。古代では、玉の飾りのついた鉾(ほこ)を、道路標識として立ててあったのかもしれない。
*みちゆきびと……旅人。通行人。
*ほど……時間。
*ふる……年月がたつ。老いる。古びる。(雨が)降る。
*ことづて……伝言。
上の定家の歌は、柿本人麻呂の作だろうと言われる歌を踏まえているらしい。
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉ほこの路行人の言も告げなく
(こいしなば こいもしねとや たまほこの みちゆきびとの こともつげなく)
万葉集 2370
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道ゆき人にことづてもなき
(こいしなば こいもしねとや たまほこの みちゆきひとに ことづてもなき)
拾遺和歌集 937
最後のところが少し違っているけど、「恋ひ死なば恋ひも死ね」という強烈な表現は変わらない。
万葉集の「言も告げなく」は、「辻占」のことを言っているのだという。
夕方に、道の辻に出て、聞こえてくる通行人の言葉から占うもので、古代にはよく行われていたらしい。
恋焦がれて半狂乱の状態で道端に立ち、見知らぬ人々の言葉の片鱗から、恋しい相手につながる何かを見つけ出そうとしている、ちょっと危ない人物の姿が思い浮かぶ。
拾遺和歌集の「道ゆき人にことづてもなき」は、占いのような超常現象に頼るのではなく、普通に伝言を待っているようにも思えるけれども、苦しい気持ちに変わりはなさそうだ。
それと比較すると、藤原定家の歌は、だいぶ冷静になっている印象がある。
【怪しい意訳】
五月雨の空を見上げながら、ふと思う。
あの人との繋がりが途絶えから、どれほど経っただろう。
手紙のやりとりはもちろん、人づてに様子を聞く機会すら、なくなって久しい。
私の家の前の道は、あの人の住む家にも繋がっている。
昔の人のように辻占をしてみたら、あの人の思いを少しは知ることができるのかもしれないけれど…
あの頃のような狂おしい恋の思いは、私の心からは、もう消えてしまった。