岸本尚毅「文豪と俳句」(集英社新書)についての備忘録。📝
元旦の混沌として暮れにけり 紅葉
(「太陽」明治三十一年一月一日)
作者の尾崎紅葉は、この句が気に入っていたらしく、明治三十二年と三十六年の年頭詠にもこの句を使い、その後、「混沌として元旦の暮れにけり」と改作したという。
元旦の混沌として暮れにけり
混沌として元旦の暮れにけり
改作前の「混沌」は、元日一日のなかに、きっちり納まって、日没とともに片付いて解消されるような印象がある。
改作後のほうが、「混沌」の存在が重く、大きい。元旦だけでは収まらず、巨大化したアメーバみたいに翌日以降をも飲み込んでいきそうだ。
尾崎紅葉は「混沌」を重く改作した明治三十六年十月に、三十五歳の若さで胃癌で亡くなっている。
人生最後の元旦を、「混沌として暮れにけり」と捉えた紅葉の心境は、どのようなものだったのか。
「文豪と俳句」では、紅葉の代表作「金色夜叉」の冒頭にも「混沌」が出てくると指摘している。
人この裏に立ちて寥々冥々たる四望の間に、争か那の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重の天、八際の地、始めて混沌の境を出でたりといへども、万物未だ尽く化生せず、風は試に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫に邈く横はれるに過ぎざる哉。
男女間の、こじれにこじれた愛憎劇を描いた小説の冒頭が、「はじめ人間ギャートルズ」のエンディングテーマみたいなことになっている。
子どものころ、この「やつらの足音のバラード」がとても好きだったのだけど、いまだに共感者に出会ったことがない。(亭主はあまり好きじゃなかったらしい)
脱線した。
何年か前、「金色夜叉」を初めて読んだとき、この地球開闢の壮大なありさまを、ことさらに陰鬱に歌い上げたような美文調の後に出てくる、本作の敵役である富山の台詞に撃墜された。
「うむ、臭い」
銭湯が早仕舞いで湯を落としていたため、垢臭い匂いが路上にまで立ち込めていたらしいのだけど、いくら敵役だからといって、なにもわざわざこんなことを恋愛小説の冒頭で言わせなくてもいいんじゃないかと思ったものだ。尾崎紅葉、よほど富山が嫌いだったのか。
「混沌」に話を戻す。
胃癌を告知され、死期を悟った紅葉が、元日の句を改作して、「混沌」に重きを置いた理由は分からない。
けれども、「金色夜叉」の冒頭で、日常の光景の中に潜む陰鬱な混沌の有り様を提示し、そこが物語の起点としたことと、無関係であるとは思えない。
胃癌による死によって、紅葉自身が自らの人生の物語を感知ことは叶わなくなる。けれども紅葉を起点とする物語が、そこで終わるわけではない。人生最後の元旦に、計り知れない混沌の質量を感じ取った紅葉は、そこに、より濃密な物語が醸成されることを感じ取ったのではないだろうか。

