こんにちは。
大晦日の夜は、たいてい家族バラバラに、別の部屋で好き勝手に過ごすのだけど、今年はめずらしく末っ子と二人で紅白歌合戦を見た。
全く知らないグループが何組も出ていたけど、末っ子によると、ほぼ韓国系で、日本人もまじっていたりするとのこと。そうなんだ。
末っ子も私と同じでテレビを全く見ないのに、芸能情報に大変詳しい。ネットで必要な情報を精選して集めながら、自前の脳にデータベースを作ることに習熟しているのだろう。いまの若い子の多くはそうなのかな。私など、歌手の名前と顔を覚えるだけでも大変なのに。
2022年紅白で、一番印象に残ったのは、藤井風という人の「死ぬのがいいわ」という曲。
なにげなく掛けていたブランケットをめくったら、けだるい死が普通にそこにある。未来の見えない日々をぬるりと生きて、ぬるりと死んでもいいと嘯く。そんな印象の歌だと思った。
ここ数年の紅白って、「死」のイメージの強い歌を、さりげなく混ぜてきているように思う。やけに「死」が近い。無自覚なまま「死」に浸かっていることを、当たり前のように歌う。
昨年は、「命に嫌われている」という曲が、大変に脳に沁みた。
2021年の紅白では、坂本冬美の「仏陀のように私は死んだ」が脳を圧した。
「仏陀のように私は死んだ」とコロナ療養日記 - 湯飲みの横に防水機能のない日記
私の若い頃には、若者の自死を誘発する危険があるとして、太宰治や芥川龍之介を危険視する大人が結構いた。高校の時の生物の先生が、授業時間を半分潰して太宰を愛読して死んだ友人の話を、その凄惨な死に様の詳細も深めて語ったことがあった。
私自身は太宰の作品をいくら読んでも死にたい気持ちなど微塵も湧かない。太宰作品の発する「死」の波動のようなものに共鳴できるようなものを内面に持ち合わせていないのだと思う。あれに感応するのは、幼少期から続く慢性的な空虚感や、自己同一性の混濁を抱えている人たち(たとえば境界性パーソナリティ障害の傾向のあるような)ではないかと考えているけれども、素人考えだから当たっているかどうかは分からない。
でも、上にあげた三つの歌には、わずかながら、「死」に寄せられるような圧を感じた。
一応仮にもうつ病患者なので、希死念慮につながりそうなものは意図的に遠ざけながら暮らしているのだけど、これらの歌は、そんな防御をするりと抜けて心に入り込み、そのままずっと手触りのよい「死」を奏で続けるような性質があるように思う。
当たり前のように聞き続けて馴染んでいて、気がついたら、「死」への敷居が極限まで低くなっていた……そんな歌なのかもしれない。
で、それが危ういことなのかと言われると、あまりそうとも思えない。年若い人が聞いて死にたくなるのはダメだろうけど、私のような年齢の人間が「死」の気配に馴染んだとしても、そろそろそういう頃合いだろういうだけだ。別に死にたいわけじゃないけれども、積極的に、前向きに、人生の店じまいの手順や心構えなどを思い巡らすことは、何も悪くないだろう。
平清盛は享年64。
北条義時は享年62。
昔の人の人生は短い。
私はできれば70歳は超えたいところだけど、今後の健康回復次第かな。歩こう。