読書
あいかわらずの、平行読書。
橋本治「宗教なんかこわくない!」の続きを読みつつ、「おらおらでひとりいぐも」を読みつつ、時々うとうと。(_ _).。o○
「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんは、自分の中にある無数の声、思索の言葉を抱えながら、自ら「気づき」に至ることを、生きるよりどころとしている。「気づき」を待ち構えている。
最愛の夫「周造」を亡くしたことへの身を内側から引き裂くような悲しみや、親から受け継いでしまった歪みを我が子にも感染させてしまった後悔などについて、桃子さんはただひとりで考え悲しみ、思索し行動し、受け止め、学び、さらに自らを発展的に変えていく。老い衰えながら、自在に成長するのだ。
それは恐ろしい孤独のなかに身を置くことでもあり、その深淵を覗かせられている読者の私は震えるばかりであるが、「いずれ、自分も(長生きすれば)こうなる(かもしれない)」という思いもある。
しかし、桃子さんのような人は稀有であろうと思う。
身の内側から裂けるような悲しみや苦痛、不安を抱えながら、自ら考えて成長する孤独に耐え続けられる人は、なかなかいないのではないか。
橋本治の「宗教なんかこわくない!」では、「自分で考える」ことに慣れない日本人は、宗教の提供する救済に寄り付くというふうに書かれている。
日本人は自分の頭でものを考えるということに慣れていない(日本人だけでもないと思うけど)。自分の頭で考えようとすると、当然のことながら孤独に陥るけれども、なにしろ慣れていないものだから、すぐに「救済」みたいなものを求める。それは、個人の心の中に語りかける宗教だったりする。「正法眼蔵」とか「歎異抄」とか、「聖書」とか、それらをいったりきたりとか……と。
どうかな。
救済を求めてそういう宗教の本を読んだ人は、そういうところに救済の予告や予定表みたいなものはあるにせよ、生きているうちはどうしたって「救済済み」になることなんてないと、すぐに気づきそうなものだ。
だって救われないもの。生きていればずっと悲しいし苦しいし不安だしつらい。宗教はたぶん生きてものすごく苦しんでいる人間を生きたまま簡単に救済なんかしない。してくれない。
個人の心の中に語りかける類の(政治的ではない)宗教は、本来、桃子さんの頭の中にある無数の絨毛突起のような思考の言葉に混じり合って、突起を増やしてくれるものかもしれない。教祖みたいなものが現実に思考停止を強制しない限りは。そんなふうに、自分の頭で考える材料になることは、現代に生きる過去としての宗教の、もっとも健全かつ有益な在り方かたなんじゃなかろうか。
理詰めで考えることが好きな桃子さんの思考の絨毛突起のなかに既存の神仏はいないようだけど(まだ半分しか読んでないから先のことはわからない)、四十億年にわたる地球の歴史や人類の未来といった世界観が存在していて、良くも悪くも働き説明の難しい心的エネルギーとしての「愛」みたいなものがあって、送ってきた人生の記憶と深い悔恨と喜びがあって、自ら思考し続ける脳と孤独がある。
続き読もう。