こんにちは。
昨晩、日本のあちこちで「ネットに繋がらない」騒ぎがあったらしい。
複数のネット回線の会社がダメだったみたいで、うちでもパソコンやiPadがネットを使えずにいた。
iPhoneのモバイル通信なら繋がるけど、たくさん使うとお金がかかるから自粛。紙の本を読んで夜を過ごした。
「境界性パーソナリティ障害=BPD はれものにさわるような毎日をすごしている方々へ」(ランディ・クリーガー &ポール・メイソン著)
しばらく前に亭主に頼んで大学内の書店で注文してもらっていた本。昨日久々に出勤して、持って帰ってくれたのだ。
副題から察せられると思うけれど、この本は境界性パーソナリティ障害の人ではなく、その傍にいる人々のために書かれている。そういう本を、ずっと前から渇望していた。
私の人生は、どういうわけか、子どもの頃から何らかのパーソナリティ障害の傾向をもっていると思われる方々と御縁ができる機会が妙に多い。
気がつけば、となりにいる。
そしていつのまにか満杯のガラクタ箱(敢えて三角コーナーとは書かずにおく)をぶちまけたような騒動の渦中に突っ込まれている。そんな感じだ。
親しい友だちには「自分が呼んでるのでは」的なことを言われることもあるし、自分でも実際そういう「巻き込まれやすい」面があったことは否定できない。
結婚して子どもができてからは、家族をトラブルに巻き込むわけにはいかないというのもあって、かなり気をつけるようになったけれども、ご近所付き合いやPTAなど、あからさまには避けにくい状況下では何度か巻き込まれかけた。うまく避けたつもりが、とんだ遠隔攻撃(陰口で孤立させられるとかそういうやつ)を食らったこともある。ほんと、勘弁してほしい。
おそらくは、痛みや苦しみに共感しやすい性質を見込まれるのだと思う。さらに具合の悪いことに、「言われたことを言葉通り受け止める」上に、中途半端にお人好しという性質まで持っている。大人しそうで気が弱そうに見えるのもよくないのだろう。実際争いごとは嫌いではあるし、たいていのことは自分のほうで我慢して流してしまうので、御しやすく思われるのかもしれない。
で、そんなことはどうでもよくて、私が本書で1番知りたかったことは、パーソナリティ障害と発達障害、そして統合失調症との関連性だ。
有り余るほどの(出来ることならネットオフに叩き売ってしまいたいほどの)個人的体験を踏まえるならば、それらには密接な関係があるとしか思えない。
そして、あくまでも素人考えだけれども、虐待された等の生育歴だけでは説明のつかない、脳の器質的な問題が、根っこの深くで絡みついているとも思っている。
なぜなら私は、何からの発達障害を持っていると思われる人が、10代のころから何らかのパーソナリティ障害的な振る舞いをしはじめて、その後、統合失調症の陽性症状と言われるような状態になるという事例に、何度も何度も出くわしているからだ。
なんで自分の人生にはこんな迷惑なオプションがあるのだろうと常日頃思っていたけど、長女さんの「発病」と入院を経た今となっては、これは意味のあるオプションだったと思う他はない。こういう経験のある私が母親でなかったら、こんな状況は、なかなか受け止められなかっただろうから。
昨晩読んでいた本の序盤には、境界性パーソナリティ障害の診断基準として、つぎの条件を挙げている。
一過性のストレス関連性の妄想用観念または重篤な解離症状
解離症状については、長女さん本人が10年以上も前から訴えていて、具体的にどういう状態になるのか、私は詳しく聞いてきている。
感情の消失。
非現実感。
日常のあらゆることへの説明のつかない違和感。
一時的な記憶の脱落。
そうした訴えと同時に「自分がどういう人間であるのか、確証が持てない。毎日変わってしまうし、前の自分が思い出せない」ということも、よく言っていた。
それは言い換えるなら、
「同一性障害」(著明で持続的な不安定な自己像または自己感
ということになるのだろう。そしてこれも境界性パーソナリティ障害の診断基準になるのだと、上の本に書いてあった。
長女さんは統合失調症のような様態だったために医療保護入院となり、統合失調症の人がよく処方される薬(エビリファイ、リスペリドン)を服用しているけれども、いまのところ、主治医から診断名が統合失調症であるとは、少なくとも私たち家族は聞いていない。
主治医のお考えは分からないけれども、発達障害であることを踏まえて、幅を持たせた判断をしようとしているのではないかと思っている。
入院直前の数日間、長女さんの言動は、境界性パーソナリティ障害の人の典型的な振る舞いとされるとのに(それは私が実人生でよく見聞きして食らってきたものとそっくりだったし、上の本に実例として掲載されているものとも重なっていた)、どんどん近接していった。そして、パンクしてしまった……のだと思う。
境界性パーソナリティ障害である人生とは、1日24時間、度し難い不安や恐怖、壮絶な空虚さに耐え続けることなのだという。多くの問題行動は、その苦しみから逃れるために引き起こされるのだとも。
自己像が不安定で「自分がない」と感じることの苦しさは、私にはよく分からない。最近もの忘れが増えてきて、昨日の夜食べたものすら即座に思い出せない私だけど、自分は「ある」と疑いなく感じているし、そのあたりに関する空虚さなど微塵も持たない。これはきっと、とても幸せなことなのだろう。
「自分がない」という自己同一性障害は、なぜ起きるのか。
それは治療や療育、本人の意図的な努力などで、なんとか出来るものなのだろうか。
どうも、そういうものではないように思えてならない。
理解と確信は違う。
自分がいまペンを持っているのは右手だということは理解していても、いまペンを持っているのが自分の右手だと、心からカチッと確信できるかどうかは別の話だ。
その理解が合理的だと分かっていても、ピンと来ない、確信が持てないということはいくらでもある。
本の続きを読もう。