湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

枕と自閉症……

 

朝刊を開いたら、枕の全面広告があった。

 

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佐藤愛子氏と筒井康隆氏と上野千鶴子氏が愛用する枕だという。

 

近頃の新聞は高齢者層向けの広告が紙面を占拠していることが多い。

 

そういう世代が若い頃に愛読したであろう作家(と学者)が商品をより魅力的に見せてくれるだろうという、広告製作者の目論見なのだと思うけれども……

 

 

私には完全に逆効果である。

 

 

息子が自閉症の診断を受けたころ、上野千鶴子氏が「自閉症は母親の過干渉が原因」とかいうトンデモ論をぶちあげて本まで出していたということを、ネット記事で知った。

 

その経緯について書かれた記事がまだネットにあったので、リンクを貼っておく。

 

新しい差別論のための読書案内(2)

河合文化教育研究所編『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって』

こぺる刊行会『こぺる』20号、1994年11月

『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって』

 

ちょっと引用させてもらう。

 

上野千鶴子が差別問題にからんで何か「やらかした」らしい。ちまたでは、そうした風説が流れている。事実経過はこうである。一九九三年一月の終わり、大阪府立高槻南高校で障害者問題に取り組む冨田幸子教諭より、フェミニズムの旗手上野千鶴子および大手進学塾である河合塾のもとへ、質問・抗議の葉書が寄せられた。一九八六年に河合塾より発刊された上野千鶴子著『マザコン少年の末路―男と女の未来』(河合ブックレット1、河合文化教育研究所発行)の中でなされている、“自閉症は母親の過干渉・過保護によって引き起こされる”という記述は自閉症への誤解にもとづくものであり、差別を助長するのではないかというのである(この『マザコン少年の末路』は、一九八五年に河合塾大阪校で行なわれた講演会をもとに編集されたもので、河合ブックレットの第一冊めである)。

 

抗議者側と河合塾上野千鶴子側との話し合いは、上野氏が一応反省文を著者に付け加えることで落ち着いたものの、上野氏が結局最後まで自論を完全には否定しなかったために、もにょっとした終わり方になったようだ。

 

この話をネットで知って以来、私の中で上野千鶴子という人の肩書きは「学者」ではなく「インチキ物書き」になった。その後この方の著書を読む機会もないので、申し訳ないけれども肩書きはかわらないままである。

 

千歩譲って、発達が著しく遅れている子どもを生かすために介助する母親が過干渉に見えたのだとしても、それを本にして世に出すことで、何が起きるのか、誰を殴ることになるのかについて、全く想像できないような人が「社会学者」だというのは、笑えない話である。

 

「学者」として自閉症について語るのなら、せめて、少し前の時代で、自閉症が「冷蔵庫のように冷たい母親」の愛情不足のせいにされていたことぐらい、知っておいてほしかった。

 

上野千鶴子氏のおかげで、フェミニストとやらにも胡散臭さを感じるようになった。率先して母親叩きをするフェミニストって、何なのか。それとも自閉症児の母親は権利を保護すべき女性じゃないとでもいうのだろうか。

 

こういうことがあると思い出す聖書の一節がある。

 

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取とりのけることができるだろう。(マタイによる福音書 7章5節)

 

 

新約聖書の中でも、とりわけ胸に刺さる節だ。

 

こんなふうに上野千鶴子氏を批判するような駄文を書いている私にだって、見えていないものはいくらでもある。

 

上野千鶴子氏がなぜフェミニストでありながら、「母親」を叩くのかは私には分からない。もしかしたら止むに止まれずそうしなくてはならないほどの毒や痛みを個人史の根っこに溜め込まれているのかもしれない。上野氏の自閉症に関する言説は迷惑だけど、ご本人の人格や人生まで裁く権利など、目の中が梁だらけの私にはない。

 

上で引用した文章の続きでは、筒井康隆氏の「てんかん」差別問題にも触れられている。

 

社会における問題が、自閉症児だけなら問題は簡単なのだが、世の中に被差別者の種類は、無数にある。自分が被害者である事案について精通するのは困難ではあっても、不可能ではない。しかし、そこにもうひとつ違う差別問題への理解を加えるのは至難の技である。そのことを私は、筒井康隆氏の断筆に端を発する「てんかん」の問題で痛感した。あの事件における日本てんかん協会の主張を理解するために、私は京都産業大学関西大学京都府立総合資料館・志賀町立図書館で二〇冊を越える関係図書のほか、てんかん協会発行の雑誌を読み、それなりの理解に達した。しかし、それは私が差別問題を専業的に研究する大学教員であるから可能だったわけで、一般の人には時間的・物理的に無理である。すると、差別問題を「正しく理解する」ということは不可能ということになる。なるべく努力することは可能でも、誤った理解をなくすことは百年河清を俟つに等しい。このあたりに、従来の啓蒙的差別論が置き去りにしてきた問題があるように思う。科学的に「正しい理解」を世間に期待しないで、なお差別問題を改善する方途はどこにあるのだろうか。

 

 

筒井康隆作品は若い頃によく読んでいたけど、てんかんについて書かれた文章は未読で、騒動になった経緯もよく知らない。

 

ただ、筒井康隆氏の作品やエッセイには、極めて弱い立場の者にゲスいとしか言いようのない蹂躙を加えるシーンが出てくることがあるので(それが苦手で後年あまり読まなくなった)、そういうノリで書いてあるのだとしたら、だいぶまずいだろうなとは思った。

 

 

まあそんなわけで、広告の素敵な枕は、ちょっと欲しいけど、私はたぶん買わないだろう。イメージが悪すぎる。(´・ω・`)