「はだしの天使」という漫画を、Amazonの読み放題サービスで読み始めて、一巻目を読了。
重度自閉症の息子を育てる母親の、困難に満ちた日常と、周囲との葛藤が、出産の日から順を追って描かれている。
私の息子も重度自閉症だけれども、自分の育児全盛期には、こうした漫画は、とてもじゃないけど読めなかった。
それ知ってる。
全部知ってる。
だから、何?
としか、思えなかった。リアルがあまりにも大変なのに、フィクションの世界でまで、それを追体験する必要を感じなかったのだ。
それに、フィクションのなかの「自閉症児の母親」は、あまり私とは似ていないので、感情移入もできなかった。
私は息子の診断を聞いても、この世の終わりのように打ちひしがれたりはしなかったし、そもそも自分の中で息子の発達障害を確信した次の瞬間には、できる限りの手を打つべく、とっとと外部にアクションを起こしていたから、我が子の障害を受容するまでの葛藤みたいなものも、ほとんどなかった。
また、フィクションの中の母親たちは、定型発達の「きちんとした人」として描かれているけれど、私はそうではないわけで、私自身の困難さというものを、持て余すほど抱えていた。だから、物語が切々と訴えている母親の心情、とくに、子どもの問題のために、「普通の生活」が送れないとか、一般的なレールから外れる恐怖とか、世間の目が気になるとかいう類の苦しさに、あまり共感できなかった。それらは元から私の人生にあったものだから、耐性ができていたのだ。
でも、いま改めて、こういう作品を読んでみると、描かれているさまざまなエピソードに触発されて、なんとも言えない懐かしさがこみ上げてくる。
周囲の音には極端に敏感なのに、名前を呼んでも、話しかけても、聴こえていないかのように無反応だった息子。
ずーっと、積み木をいじっているばかりで、積み上げようとしないので、目の前で積んで見せたら、イラっとした顔で、瞬時に崩してしまった息子。
水が大好きで、水場から離れようとしなかった息子。
漫画のなかの男の子と同じような幼児期を送っていた息子は、極めて重い知的障害を持ちながらも、息子なりに成長し、心の深みを持った大人になった。
自閉症の診断が出て以来、いろんなことにぶつかり、克服できたこともあるし、できなかったこともあるけれど、いまはそのどれもが、かけがえのない息子の人生の記録だ。
「はだしの天使」を読みながら、そんなことを思った。
ところで、「はてなタグ」が実装されたらしいのだけど、iPhoneアプリでは、まだ設定できないのかしら。