湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

読書の途中

昨日、東田直樹さんの本を買いにでかけたけれど、目当ての著書「東田くん、どう思う?」は、残念ながら書店に在庫がなかった。


書店の在庫検索システムでは「在庫僅少」と表示されていたけれど、私が行く直前に、買われてしまったらしい。
取り寄せをお願いしたら、二日で届くとのことだった。今週中には入手できる。楽しみだ。


いまは、「跳びはねる思考」(角川文庫)を読んでいる。

 

 

 

 

 苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。

 目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。見ている僕はひとりぼっちなのに、世界中の人とつながっている気分になります。

 自然はどんな時も、人々に平等です。そのことが僕の心を慰めてくれるのです。


  東田直樹「跳びはねる思考」(角川文庫)

 


この一節を読んで思い出したのは、教会の日曜学校で習った、「マタイによる福音書」のなかの、イエスの言葉である。

 

 

 

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。


マタイによる福音書(口語訳)  5章43-45節  WIKISOUCEより

 

 

キリスト教も含めて、多くの宗教は、人を分け隔てし、差別する道具の一つにされてしまうことが多い。


そもそも人間の脳は、「仲間意識」と「排他感情」で強い快感を得る仕組みになっているのだというから、信仰や信念に限らず、特定の属性をを共有するグループに所属すれば、どうしたって差別や排他は行われてしまうということになる。


思えばイエスという方は、同時代の社会に蔓延していた差別や排他感情の生け贄として、十字架につけられてしまったようでもある。

現代の豊かな社会のなかにあっても、いわれのない差別をうけたり、無理解で排他的なまなざしをあびてしまう障害者もまた、十字架を押しつけられているようなものだろう。


自然は、そんな人間の脳内の差別の仕組みなどとは無関係に、全ての人にやさしく、また厳しい存在である。

 

そんなことを思いながら、東田直樹さんの言葉を読むと、どうしようもなく悲しくなってくる。


自閉症の方々が、社会のなかにいて「苦しくてたまらなくなる」ような時が、すこしでも、減っていきますように。