おはようございます。
タイトルの意味不な俳句は仕様ですので気にしないでください。
寒さと痛み
朝のドタバタが一段落したので、白湯など飲みながら、iPhoneを開いている。
今朝は六時半に起きて、末っ子の弁当と朝食を作り、自分も食事して朝の薬を飲み、息子の支度をした。
この頃は、夜中に身体が冷えると、朝起き上がる時にに地獄の痛みを食らうので、とにかく冷やさないように心がけている。上はTシャツの上にパジャマを着て、その上に「着る毛布」を着ている。下はパジャマズボンの二枚重ね。これでなんとか、関節の激痛を免れる。
それでも、立ち上がるのに、亭主の手を借りる必要があった。
毎年、今度こそ、いい感じの電気毛布を買おうと思うのに、我慢して春を迎えることになる。今年もそうなりそうだ。
二年ほど前に、血の涙を流す思いで「断捨離」(この言葉、実はあまり好きじゃない)を強行して、なんとかまともなスペースのある家にしたので、物を極力増やしたくないのだ。電気毛布のように、一時期しか使わないようなものは、できれば買わずに済ませたい。
あまり痛みがひどくなるようなら、考えなくてはならないけれども、どのみち電気毛布は根本的解決にはならないから、体質改善をきちんと考えるべきだろう。
だいたい、なんだってこんなに毎朝痛いのか。
更年期の手足の関節で、一体何が起きてるのか。
外科に相談しても、リウマチなどの「名前のつく病気」ではないことが分かると、対処療法的に痛み止めを出してくれるだけになる。痛み止めを飲めば痛みは和らぐけれども、お腹を壊す。結局痛みの場所が変わるだけで、いいことがない。
むう。
運動と食事で改善できないか、調べてみるか。
良さそうな情報が見つかったら、人体実験の試行錯誤だな。
音楽
息子(重度自閉症・22歳)は、バッハの「マタイ受難曲」を聞くと、脳の混乱のおさまる人である。
バッハならなんでもいいわけではなくて、パイプオルガンで演奏された「トッカータとフーガ」をかけると、真剣な顔で曲を止めに来る。苦手らしいのどけど、曲がダメなのか、パイプオルガンの音がダメなのかは、まだ判明していない。そのうち確認してみよう。
「アレクサ、バッハの曲かけて」
というと、プライム会員特典で聴ける範囲のバッハの曲を流してくれる。でも、「マタイ受難曲」をリクエストすると、Amazonミュージックの会費を追加で毎月払えと言われる。「マタイ受難曲」は、Amazon的には、課金ランクが高いらしい。
Amazonには、プライム会員分とkindle読み放題で課金しているから、月謝をこれ以上増やしたくない。「マタイ受難曲」はYouTubeにもいろいろ上がっているから、そちらで聞けばいいし、なんならAmazonミュージックで買い取ってもいい。
というわけで、マタイ受難曲の値段を見たら、どのオーケストラのアルバムも、1500円のようだった。Amazonミュージック聞き放題サービスの二カ月分ほどの値段である。
買うかどうかはともかく、いろんな「マタイ受難曲」を息子に聴き比べてもらって、反応を見るのも楽しそうだ。なんとなくだけど、息子はカラヤンより小澤征爾のほうが好きそうな気がする。とくに根拠はないけど。
誰の著作だったか忘れたけど、カラヤンは実は強烈なナルシスト系のパーソナリティ障害を持っていて、その人生はかなり(本人よりもむしろ周囲の人々にとって)厄介なものだったというエピソードを読んだことがある。うちにあった本だったはずだけど、たぶんもう処分した。著者は精神科医だったような気がする。日本人だったかどうかは忘れた。私のことだから、きっと読書メモをどこかに書き残しているだろうから、気が向いたら探してみよう。
顔
息子を送り出してから(バス停までは出勤前の亭主が送ってくれた)、甚だしく散らかった和室の床に視線を向けると、畳の上に、巨大化した息子の顔があった。
もちろん私の見間違いで、衣類やぬいぐるみなどの堆積が、老眼とかすみ目のフィルターを通したら、たまたま顔に見えたというだけなのだけど、その見せかけの顔が、息子の実物の顔の3倍ほども大きかったので、見間違いと分かっていても、ギョッとしたのだ。
巨大な息子の顔を幻視したときにBGMに流していたのがバッハだったせいで、「惑星ソラリス」を思い出した。
映画の「惑星ソラリス」のテーマ曲は、バッハのコーラル「主イエス・キリスト、我は汝を呼ぶ」だったはずだ。
(アレクサに「バッハのコーラルかけて」とリクエストしたけど「バッハ、コーラルは見つかりませんでした」と言われた。ないはずないと思うんだけど、聞き方が悪かったかな)
私の記憶が確かならば、「巨大化した我が子」が出てくるのは、映画ではなく、スタニスワフ・レムの原作小説の冒頭である。
ソラリスの海上を飛んでいた科学者が、我が子そっくりの巨大な赤ん坊が水面に浮いているのを発見して、頭がおかしくなるのだったか。
どんなに拒んでもつきまとう愛着の幻影に取り憑かれて、なすすべもなく精神の防壁を崩されていく人の絶望にみちた安寧を描いた映画は、バッハのコーラルとの相乗効果のせいもあって、ひたすら陰鬱だったけど、小説のほうは、もうすこしトンチキな印象だった気がする。
「ソラリスの陽のもとに」は処分していないはずだから、またそのうち読み返したいけど、本を探すのが大変だ。たぶん数日がかりになる。
kindleで買い直そうかな。
映画もまた見たいけど、あの陰鬱に立ち向かうには、勇気がいる。
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今年中に1000記事行けそうかな。