湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

バッハと我が家の自閉症

19年前の日記を掘り返していたら、息子がはじめて「マタイ受難曲」を聞いた日の日記が出てきたので、転載した。


マタイ受難曲」療法…

dakkimaru.hatenablog.com

 

この日の息子の様子は、いまも目に焼き付いている。

テレビにはりつくようにして聞いていた息子が、ドイツ語の歌詞をかすかにつぶやくのを聞きとったときは、奇跡が起きているのかもしれないと思ったものだ。もしかしたらこれをきっかけに、息子が劇的に成長してくれるかもしれない、などと期待もした。

 

残念ながら、期待したようなことにはならなかったけれども、あれは確かに奇跡だったのだと思う。


息子を安心させる音楽があると分かったことは、その後の家族の生活にとって、大きな財産となったのだから。


ここのブログにも、息子と「マタイ受難曲」とのかかわりについては、何度か書いている。

 

いくつかの十字架

dakkimaru.hatenablog.com

 


近年の私にしてはめずらしく、人様の文章の書き方にご批判を申し上げている。
当時はよほど忍び難い思いがあったのだろうけれども、読み返してみると、偉そうに非難がましい言葉を連ねていて、我ながら嫌になる。

 

けれども、障害児の親として、そういう思いを抱いたという事実は残したいと思うので、記事は消さずにおく。著者の内藤朝雄氏がここのブログにいらっしゃることは、まずないとは思うけれども、もしも読んでご不快になることがあったりしたら、「ご著書を一冊購入して丁寧に感想を書きますから、それでご勘弁を」と申し上げることにしよう。


などと書きながら、Amazonで書籍情報を検索してみたら、kindleで読み放題できる著作を発見してしまった。

 

 「ニート」って言うな! (光文社新書) Kindle

 

 

面白そう。ちょっと読んでみようかな。


蛇足。
上の記事ではスルーしていたけど、内藤朝雄氏の文章を引用した中に出てくる「コウモリ傘にミシンをみつくろったりするような」というのは、ロートレアモンという詩人の作品が出典であるらしい。

 

ということを記事内で補足していなかった自分にちょっと驚いた。
こんな珍奇な表現、読んだら絶対引っかかって出典を調べたはずなのに。

 

ウィキペディアのこのページに書いてある。
デペイズマン

 

 

重度障害児と、バッハ

dakkimaru.hatenablog.com

 

この日の日記にも、息子が「マタイ受難曲」で落ち着くことを書いていた。

 

我が家では、「バッハ」=「息子の癒し」という構図が定着してるから、これから転載する過去日記にも、ちょくちょく出てくるかもしれない。

 

この日の日記には、「障害児産んだら人生終わったから、日本死ねっつーか死にたい」という匿名ブログを読んで思ったことも書いている。強烈なタイトルのブログだったけれども、書いた方は勇気をもってお子さんを育てる方向に気持ちを向けておられたので、ほっと一安心した。(ただ、ブログについているレスのなかには、読むに堪えないものもあるので、障害児の親御さんには、開いて読むことを積極的にはお勧めできない。)


少子高齢化に歯止めをかけるために産め産めと言われながら、重度の障害児が生まれると、なぜ生かすのだと叩かれる。残念ながら、ここの国にはそういう気配がある。でもそのほとんどは、におってきたらパタパタあおいておけば撃退できる、おなら程度のものである。


実際、私は相当な金額の医療費や介護費のかかる子どもを産んで育ててきているけれど、面と向かって「なぜ生かすのか」などと言ってきた人は一人もいない。相模原障害者施設殺傷事件の犯人みたいな人が町内に百人もいるような国だったなら、まるごと沈没したほうがマシだと私でも思うだろうけども、あんなことをやってしまう人は一億二千万人に一人くらいしかいないのだ。その約一人を除けば、あとは顔のないおならだ。気になったとしても、気に病むことはない。おならのような言論などにまどわされず、私たちは自分の人生を誠実に生きていっていいのだと思う。

 

 

春浅く指の痛みを編んでいる

dakkimaru.hatenablog.com


今年の二月の日記だ。この日はkindleのアレクサに向かって「マタイ受難曲」を注文していた。

 

 

日常人体マッチングとか、ラノベとか

dakkimaru.hatenablog.com


バッハなら何でもいいわけではない、という話。
トッカータとフーガやG線上のアリアは拒否されることが確かに多い。

 

でも、無伴奏チェロ組曲や、ゴールドベルク変奏曲は、わりと高評価だった記憶がある。

 

グレン・グールドのアルバムは、よく聞かせていた。

 

J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)
 

 

そういえば、グレン・グールドもおそらくは自閉症だっただろうと言われている人だった。

 

 

普通の日記

dakkimaru.hatenablog.com


気圧の乱高下のあったらしき日に、「マタイ受難曲」を聞かせている。

今年の四月のことだけれど、もう記憶に残っていない。
そういえば、このころ、いきなり高血圧になって寝込んだりしていたのだった。

 

 

さて、遅くなったので、お風呂に入って寝ることにしよう。

明日は土曜日。息子は遠足の予定。

 

 

 

朝からいろいろと


朝起きたら、首のまわり(リンパ腺)と、手の指が、ぷっくぷくに腫れていた。体調、かなり悪し。

 

が、今日は寝ていられない。


今朝、息子(7歳・重度自閉症)を学校に送っていったら、同じクラスの子が、私のところに相談にきた。

 

「このごろ、⚪︎⚪︎君、たたくのよ。ねえ、どうしたらいいの」

 

その子が話せる限りの詳しい事情を聞きながら、自分の顔色が消えていくのが分かるような気がした。

 

とりあえず、言葉を話せない息子のかわりに、ごめんなさいとあやまってから、

 

「たたいたら、『しない!』って言って、教えてあげてね」

 

とお願いし、担任の先生のところへいった。今日は放課後、教育相談を受ける予定だったけど、こういう問題は半日たりとも放置しておくわけにはいかない。

 

先生によると、息子は、今年に入ってから、自分の要求が通らないときに、何度か先生をたたくことがあったという。でも、私は全く聞いていない。教えてもらっていない。

 

先生はその場できつく叱責し、先生をたたくことは止まったらしいのだけど、先生のいないところで、自分をお世話してくれている上級生の子をたたく行為が出始めたようだ。

 

先週の半ばごろ、息子が、私の後頭部をいきなり強くはたいたことがあった。どうも本人としては、べったりと甘えたい気分だったらしいのだけど、私が少し忙しくしていて機会が見出せず、イライラが溜まって、注意を引くために、そういう行動になってしまったらしい。

 

たたいたことに関しては、その場で叱り、その後はたたかなくなったけれど、そのかわり、鼻をつまもうとしたり、目に指を入れようとしたりする行動が替わりに現れている。

 

そのつど手を押さえて「しないよ」と教えているけれど、本人としては、なかなか納得できないらしく、行動が消える気配がない。

 

納得しないのは、当然なのだ。
ほんとうは、ここは言葉の出番なのだから。

 

「遊ぼうよ」
「おかーさん、こっちにきて」

 

そう言葉に出せるようになりさえすれば、「暴力」とか「他害」といわれてしまうような行動にはならないはずなのだ。

 

正しい(誰にとっても望ましい、という意味)はけ口としての、言葉によるコミュニケーションが実現しないから、たたくとか指を目に入れるとかいう行為になってしまっているわけで、そういう問題行動だけを封じても、人に何かを伝えたいという気持ちがそのまま残っている以上、納得するはずがないのである。

 

難しいということは、骨身に沁みて分かっている。

 

何年も何年も、ありとあらゆるやりかたを試みてきて、失敗してきているのだ。

 

息子は、どうでもいい言葉は、いくらでも口真似して言えるのに、大切なことや、ほんとうに伝えなくてはならないことは、死んでも言うまいという態度に出る。


でも、逃げ場はもうないのだと思う。

 

息子に、何らかの形で安全に「自分の気持ち」を表出する方法を持ってもらわなくてはならない。他害が取り返しのつかないほど身についてしまう前に。

 

(2005年06月20日

 

✳︎過去日記を転載しています。

 

 

寝不足

息子(8歳・重度自閉症)の夜泣きと朝泣きを食らい、睡眠時間が4時間を割っている。

眠れないまま、10年後のことなんて考えたものだから、さすがにちょっぴり、めげそうになった。


長女さん、19歳。
あと1年で成人。それと同時に、小児慢性特定疾病の医療補助が、切れる。

治っているだろうか。そう思いたい。


息子、18歳。
養護学校に転校したとしても、高等部を卒業する年である。
いまのレベルの知的ハンデを抱えたままなら、就業は難しいだろう。私の健康状態によっては、施設に入れるという話が、そろそろ持ち上がっているころかもしれない。


考えたくない。
というか、イメージできない。
一緒に住めなくなることなんて。

もちろんそうならないために、いま療育をがんばっているのだ。せめて言葉を少しでも使えて、道を一人で歩ける程度になってくれていれば・・・。

 

朝の五時に、原因不明のパニックを起こして絶叫している息子を見ながら、さすがの私も、ため息がでた。

 

何年か前、知的障害者のために開かれたコンサートに、家族ででかけたことがある。招かれていたのは、上々颱風。すばらしいコンサートだったけど、私の記憶に刻まれているのは、障害者の親御さんたちの顔だった。

 

そろそろ老齢に達しつつある、その方々の顔には、表情というものが無かった。つかれきっているのでも、あきらめきっているのでもない、ただただ、無表情な顔。石のような後姿。


いつか、私もあんなふうに老いていくのかもしれない。そう思ったら、怖くなった。


やわらかいままでいたいと思う。
顔、石になったら、子供に向かって笑うこともできなくなる。

息子が物投げて絶叫してても、ため息ついて、固まってちゃダメなんだと思う。


石の対極にある状態は、「生きている」ということだろう。


やわらかくあるために、毎日こうして、こんなものを書いたり、読んだりすることが、私には必要なんだと思う。

生きるために。

 

2005年06月18日

 

 

*過去日記を転載しています。

 

「ウザァーイ」という言葉

長女さん(8歳)が公文の教室からもらってきたプリントに、斎藤孝の「ガツンと一発」シリーズという本から引用したという「口にしちゃあ なんねえ リスト」が掲載されていた。

 

それには、

 

「ムカツク・キレル・ウザァーイ」

 

の三語がトップにあげられていて、次のような解説がついていた。

 

事件を起こす子、問題を起こす子は兆候が有るのです。そのサインが言葉に出てきます。あの佐世保の事件の女の子は「ウザァーイ」を使っていたそうです。

 

<だめなわけ> 自分にまとわりつくものを振り払いたい、出来るなら消し去りたいという気持ちを表している言葉だから、それを言うとその感情がドンドン大きくなるからです。

 

 

「ウザイ」「ウゼエ」という言葉が目や耳に入り出したのは、1990年代以降だったように思う。


もっと前から広まっていたのかもしれないけど、私の周囲で使う人はいなかった。


「邪魔だ」「不快だ」「うっとうしい」などでは表現しきれない、対象への反感や反抗心、自身のアウトロー的な立場の表明など、さまざまな要素を含んでいるので、使いどころのある人にとっては、便利な言葉なのだと思う。

 

私自身は、使いどころがないので、まず使うことはない。


引用文中にある「佐世保の事件」というのは、2004年6月に起きた、小学生の女児による殺人事件のことだと思う。


事件の凄惨さに加えて、加害者の子の発達障害の有無が取り沙汰されたこともあり、発達障碍児の親としては、胸が塞がるような事件だった。

 

「ウザァーイ」という言葉を使うことが、問題を起こすことの兆候であるかどうかは、少なくともその言葉が使われている状況や、使っている子どもの状況などを、よく見極めた上でないと、考えられないことだし、言うべきではないことだと思う。

 

特定の言葉を使ったというだけで、殺人者予備軍だなどと決めつけられては、たまらない。


言葉を封じる前に、なにが「ウザイ」のかを話してもらって、「どうすればウザくなくなるのか考えて行動してみよう」と促してたいところだけど、問題を起こす可能性のある子どもの周囲に、その手間をかけることのできる大人がいないことが問題なのかもしれない。

 

(2005年06月15日)

※過去日記を転載しています。

 

 

BABY, THE STARS SHINE BRIGHT

映画「下妻物語」に出てきた「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」のホームページを、眺めている。

 

www.babyssb.co.jp


か、かわいい・・・・。


長女さんは、こういうのは、動きにくそうだから嫌いだそうだ。


もう一人、娘産んどいて、よかった・・・・。

 

 

(2005年06月13日)