湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

今日の一冊「椿説弓張月」曲亭馬琴・和田万吉校訂

お気に入り本棚の4冊目。


曲亭馬琴椿説弓張月」上巻 岩波文庫

 

購入した時期は不明。たぶんこの20年以内だと思う。

 

3巻セット(上中下)1000円で古本屋さんで購入し、その包装を解かないまま書斎に積んであった。たぶん私が買ってきて放置してあったのが、岩波文庫の古典系ということで書斎に流れていったのだろう。そういうことは、我が家ではわりとよくある。


先日、橋本治の「ひらがな日本美術史」(第六巻)で、「椿説弓張月」の挿絵を描いた葛飾北斎についての記事を読んで、いつか原文を読みたいと思っていたところ、たまたま書斎の本棚のてっぺんに平積みになっていたのが目に入ったので、自分のお気に入り本棚に移動した。


第一巻の初版は1930年(昭和5年)。

私が持っている本は、1990年(平成2年) 第9刷だった。

 

椿説弓張月」から離れるけど、1990年というと、「ソ連」でゴルバチョフ氏が初代大統領に就任し、ノーベル平和賞を受賞した年だ。

 

モスクワにマグドナルド一号店ができた年でもあるらしい。残念ながらロシアのウクライナ侵攻のせいで撤退するらしいけれども。

 

さらに話が脱線するけど、その前年の1989年は、日本も世界も大変な年だった。
1月に昭和天皇崩御。6月に中国の天安門事件。11月にベルリンの壁崩壊。なかなかすごい一年だった。

 

私はというと、1989年に大学院の博士課程の試験に落っこちて、翌1990年にもう一度受けて辛うじて合格したものの、勉強やアルバイトに忙殺されていて、専門外の近世文学の本を買うような心の余裕は(財布の余裕も)なかった。そもそも江戸時代全般、苦手意識が強すぎて近寄れなかった。

 

結婚後、明治以前の作品をいろいろと楽しんで読むようになり、岩波文庫で買いそろえたいと思っても、当時は品切れや絶版本がとても多くて、欲しい作品がなかなか手に入らないことが多かった。それで古書店でお手頃価格の岩波文庫の古典系を見つけたときには、すぐに読むつもりがなくても、とりあえず買っておくようになった。その結果、「椿説弓張月」のほか、背表紙下が黄色や緑の岩波文庫が長年積読されることになった。


古本屋さんの値札がついた厚手の透明フィルムの包装を解いて、「椿説弓張月」上巻を開いてみると、ちょっとつぶれた活字が並んでいた。校訂者による「はしがき」も旧字旧かな、古めかしい漢語満載で、少し読みにくい。

 

昭和四年九月秋雨の霽間にともすれば残雲に没せんとする弓張月を仰いで

校訂者識す

 


「霽」は音読みが「セイ・サイ」、訓読みは「は(れる)」。漢字検定一級レベルの漢字らしい。せっかく調べたから覚えておくことにするけど、漢字検定を受ける予定はないので、手書きする機会はたぶん来ないだろう。


どことなく馬琴の文体に影響されたらしい気配のある「はしがき」が面白かったので、その執筆者で本書の校訂者の「和田万吉」という人について、Wikipediaで調べてみた。

 

和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。

 

(Wikipediaより引用)


美濃国の大垣といえば、織田氏と斎藤氏の係争地だったような…と、うろ覚えの知識が頼りないので調べてみたら、本能寺の変のあと、池田恒興が城主になり、その後主がたくさん入れ替わったけれど、寛永12年(1635年)に大垣藩戸田家の居城となって、明治時代に至る、とのことだった。

 

そんな歴史ある大垣藩士の家に生まれたものの、明治維新で藩がなくなってしまったのだから、武家ではない人生を歩まなくてはならない。

 

大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して大学書記となり、図書館管理となる。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。

 

明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進して、以後27年間にわたって館長を務めた。

 

明治43年(1910年)に欧米に留学して図書館事情などを研究して帰国、帰国後日本で最初の図書館学の講義を担当し、日本文庫協会(後の日本図書館協会)や文部省図書館員教習所の創設などにも携わり今沢慈海と並んで日本の図書館学の先駆者として高く評価されている。

 

大正7年(1918年)には教授に昇進し、大正9年1920年)には文学博士を授与された。また、国文学の分野においても古版本など出版史関係の研究や近世文学書籍の本文校訂などに実績を残し、特に謡曲曲亭馬琴関係の研究で知られた。

 

(Wikipediaより引用)

 

この短い略歴からも、和田万吉氏がとても本が好きな人だったのだろうなと察せられる。
欧米に留学するほどだから、きっと語学もできたのだろうけど、海外の作品ではなく、日本の古典を研究対象として知られていたというところに興味を惹かれる。

幼いころに、西鶴や馬琴などの近世の出版物を愛読していたのかもしれない。

 

「はしがき」で紹介される馬琴は、まるで戦国の英雄みたいになっている。

 

椿説弓張月曲亭馬琴の壮年期、文化二年乙丑の冬(時に三十九歳)から同八年辛未の春(時に四十五歳)に至る約六年間に成った初度の対策で、翁が六十余年の著述生活中に一新時期を画したものである。従来諸先輩の後に跟随してかつかつ戯作壇に顔を出して居た翁が一気に頭角をあらわし、殊に所謂読本界に於いて蠢蠢たる群小を一蹴して立ったのは、全く本書に始まる。


椿説弓張月」第一巻の「はしがき」より
(中途半端だけど、旧字旧かなを読みやすく改めてみた)

 

 

和田万吉氏の心のなかでは、馬琴は近世文筆界の英雄だったのかもしれない。
文明開化や近代化の波のなかで、古臭いものとして退けられそうな江戸時代の読み物の価値を、しっかり守って後世に伝えようという気持ちもあったのではないかと思う。


ところが。

 

だが、大正12年(1923年)の関東大震災東京帝国大学附属図書館は焼失、貴重な蔵書を多数失った責任を問われた和田は翌年辞任を余儀なくされる。

 

(Wikipediaより引用)


貴重かつ膨大な蔵書の焼失を、和田万吉氏一人の責任とするのは、あまりにも理不尽に感じられる。けれども、この焼失で最も心を傷つけられ落胆したのも、この図書館を長く守ってきた和田氏本人だったのではなかろうか。

 

まるで源平の栄枯盛衰を体現したかのような図書館長人生だけれども、辞任後にも決して心折れて虚脱することなく仕事をつづけたようで、この「椿説弓張月」の「はしがき」が書かれた昭和四年は、関東大震災の六年後になる。

 

Wikipediaには、こんな情報もあった。

 

外孫 佐々淳行

(Wikipediaより引用)

 

佐々淳行氏といえば、あさま山荘事件(1972年)がとくに印象深いけれども(当時小学生だったので山荘のありさまを中継するニュースを見た記憶がかすかにある)、Wikipediaの経歴をざっと眺めただけでも、まるで近代軍記物の登場人物になれそうな生涯だ(いや軍記物とは違うか。だいぶ血なまぐさいけど)。ご先祖は戦国武将の佐々成正だというし。

 

横道にそれまくって、「椿説弓張月」の話をほとんど書けなかったけど、いいことにする。

 

 

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