第4回「矢のゆくえ」を視聴した。
治承四年八月十七日、とうとう頼朝が挙兵する。
最初のターゲットは、野菜の嫌いなコオロギ野郎の山木兼隆(伊豆国の目代)と、野菜を粗末にするパワハラ野郎の堤信遠。
八月十七日は、三嶋大社の祭礼が行われる日だったという。
祭りで人の往来の多い牛鍬(うしくわ)大路を避けて、人目につかない蛭島(ひるがしま)通りを、こそっと行こうぜと、北条時政が提案すると、頼朝は、
「それはならぬ!」
と止めて、堂々と大路を進軍するように命じる。
ちなみに「吾妻鏡」では、ここの頼朝の台詞は次のように書かれている。
思うところ、然(しか)なり。但し、事の草創として、閑路を用い難し。
意訳してみる。
「時政が言うように、蛭島通りを行ったほうが目立たないだろうと俺も思うよ。ただ、俺たちはこらから、あの平清盛の首を取りに行くんだよ。そういうデカいことを起こすっていう時に、初っ端からコソコソしてちゃダメだと思うんだよね。この際、目立っても構わないから、牛鍬大路を堂々と行こう!」
というわけで、祭りを見に来た人々の注目集めながら進軍することに。
今回は、山木の館に火矢を一本放ったところまで。
Wikipediaによると、
山木兼隆 治承四年八月十七日 死没
堤信遠 治承四年八月十七日 死没
ということなので、山木と堤の命運は、たぶん次週で尽きるのだろう。おいしい野菜を粗末にした罰だ。
ただ、ドラマでは北条が贔屓されていて、山木や堤が悪役っぽく描かれているけれども、実際の彼らの関係は、善悪で割り切れるものではないのだろう。
Wikipediaの山木兼隆のページを読むと、彼も頼朝と同じように、伊豆に流されてきた人物なのだという。
けれども、伊東祐親に切り捨てられた頼朝とは違い、山木兼隆は地元の武士たちと結びついて勢力を伸ばし、目代に任命されるまでになったらしい。
ドラマの中では、伊東祐親が北条時政の元にきて、すでに頼朝に嫁いだ政子を山木の嫁に出すようにと説得していた。その伊東と北条も姻戚関係だった。婚姻が、地元の結束を強め、戦を防ぐ手段だったのだろう。
もしも、北条時政が頼朝を見捨てて、山木や堤、伊東の意向に従うことで、伊豆での勢力を維持しようとしていたら、平家は滅びず、鎌倉に幕府も出来なかったのかもしれない。
でも、北条氏は少ない兵力であるにも関わらず、頼朝を担いで挙兵に踏み切った。
一か八かで挙兵せずにはいられないほど、伊豆の中で、北条氏は存亡の危機を感じて追い詰められていたのだろうか。
あたりには飢饉の噂も流れている。
以仁王と源頼政の挙兵失敗の影響で、地方への目も厳しくなっている。
うかうかしていると、自分たちよりも平家と親密な勢力に思わぬいちゃもんをつけられて、一族郎党土地を追われ、潰されかねない。
そういう具体的な危機感があったのではないか。
などと、歴史音痴は想像してみる。
(_ _).。o○
八月十七日の山木兼隆への挙兵の記事を、「新刊吾妻鏡」(国立図書館コレクション)で探して読んでみた。
「新刊吾妻鏡」は、Kindle Unlimited(読み放題)で利用することができる。
この本が出版されたのは、1626年、徳川家光が将軍だった頃だというから、頼朝の時代から400年も後になる。
家康が、「吾妻鏡」を愛読していたらしい。
日陰の身の上だった自分の生い立ちを、伊豆に流されていた頼朝の姿に重ね合わせていたのだろうか。
400年も前に出版された貴重な本を、図書館へも行かずに、ベッドで行儀悪く横になったまま好きなだけ眺められるようになるなんて、若い頃には想像もしなかった。本当に贅沢な世の中になったと思う。
古活字版なので、変体漢文さえ克服できれば、私でも何とか読めるけれども、克服しきれそうにないので、参考書を入手した。
解説も含めて772ページ。分厚い文庫本だ。
原文のほか、書き下し文と現代語訳、語句の説明まである。「吾妻鏡」全文ではなく、重要な出来事を選んで編集されているものだけれども、私には十分だ。
ドラマと一緒に楽しんで読もうと思う。
岩波文庫本版の「吾妻鏡」は、まだ発掘できていない。どこにあるやら…。