Amazonのマーケットプレイスで「摘録 鸚鵡籠中記」(上下巻 岩波文庫 塚本学 編注)を購入した。
著者は朝日文左衛門(重章)。
先日読んでいた「朝日文左衛門の食卓」(大下武 著)の元になった日記だ。
さっそく上巻の最初の記事を読んでみたら、いきなり殺人事件の話だった。
貞享元年(1684年)
八月二十九日、江戸において大番岡部隠岐守組児嶋源蔵(父助左衛門)、同組の大岡伊左衛門宅へ行き喧嘩、伊左衛門を切り殺す。源蔵は暫くありて死す。
小十人天野伝四郎組大岡忠兵衛、(伊左衛門弟なり) 新御番武田与左衛門組太田忠左衛門、(半左衛門弟) 右両人共に伊左衛門を助けに出て疵を蒙る。(忠兵衛は同日晩方に死し忠左衛門は二か所きず)
伊左衛門召使いの侍岩黒安左衛門と源蔵、中間弐人共に疵を蒙る。
同日、雲州様御用人外山伝六改易。(弥右衛門兄。町家に居す。屋上にて紙鳶をあげ、そのほか色を好み不行跡)
やたらと「左衛門」が出てきてややこしいけれども、大岡家殺人事件の登場人物は、たぶん七人だ。
- 児嶋源蔵 (大番岡部隠岐守組所属) 死亡
- 大岡伊左衛門 (大番岡部隠岐守組所属) 死亡
- 大岡忠兵衛 (小十人天野伝四郎組、伊左衛門の弟) 死亡
- 太田忠左衛門 (新御番武田与左衛門組) 負傷
- 岩黒安左衛門 (伊左衛門の召使の侍) 負傷
- 中間の二人 (侍ではない召使) 負傷
「大番」の「岡部隠岐守組」に所属する児嶋源蔵なる人物が、同じ組の大岡伊左衛門の家に行って喧嘩になり、伊左衛門を切り殺し、自分も死んだのだという。
伊左衛門の弟の忠兵衛は、兄を助けようとして巻き込まれ、その日の夜に死亡。
同じく助太刀に入って負傷したという太田忠左衛門は、伊左衛門兄弟の友人だったのだろうか。召使たち三人も、災難なことだ。
「大番」「小十人」「新御番」というのは江戸幕府の要地警護などを担当する職だという。
源蔵と伊左衛門が所属する「大番」は全部で12組からなり、1つの組は番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10名、同心20名で構成される……とウィキペディアに解説があった。
「大番」は耳慣れないけど、「与力」や「同心」は時代劇ではなじみ深い役職だ。「必殺仕置き人」の中村主人も同心だったはず。
江戸の平和を守る役職の人々の殺し合い。
現代なら、警察官の自宅で、警察官が警察官の兄弟を殺害したようなものだから、大いに世間を騒がせたことだろう。
彼らが揉めた理由は、書かれていない。
「~宅へ行き喧嘩」とあるから、わざわざ殺すために大岡家に押しかけたのではなく、普通に訪問して、滞在中に喧嘩になったのだろうか。
伊左衛門は即死だったようなのに、「源蔵は暫くありて死す」(しばらくたってから死んだ)という書き方から見ても、その場で伊左衛門をかばおうと動いた人々は、源蔵にとどめを刺していないことがうかがえる。
もともと親しい友人同士が、宅飲みで泥酔中に言い合いになって、刀を抜いてしまった……この記事を読んだ限りでは、そんなふうに想像される。
で、このセンセーショナルな事件と同じ日に、「雲州様御用人外山伝六改易」という出来事もあったと記されている。
「雲州様」というのは、松平出雲守義昌のことで、尾張藩主徳川光友の三男であり、陸奥国柳川藩の初代藩主でもあったという。
改易(役職・身分の剥奪)されたのは、その「雲州様」の御用人(秘書的な役割で、有能な人が選ばれる)だった、外山伝六なる人物なのだけど、改易の理由がなんだかおかしい。
町家に居す。屋上にて紙鳶をあげ、そのほか色を好み不行跡
「町屋」というのは、店舗併設型の都市型住宅のこと(ウィキペディアより)。
つまり商人向けの物件であり、武士の住まいではない。
江戸では武士と町人の居住区域がきっちり分けられていたようなので、御用人でありながら町屋で暮らしていたことが、反体制・反権力と受け止められたのかもしれない。
次に出てくる「紙鳶(しえん)」というのは、凧のこと。
外山伝六は、町屋の屋根に上って、凧あげをしていたようだ。
「色を好み不行跡」とあるのは、女性関係等で何かやらかしたのだろうけれども、それよりも「町屋の屋上で凧あげ」のほうが改易理由のメインのように書かれている。
なんで凧あげ程度で罰せられるのかと思ったら、江戸幕府は凧あげを危険行為とみなして、禁止令を出していたらしい。
江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった。競技用の凧(ケンカ凧)には、 相手の凧の糸を切るためにガラスの粉を松脂などで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木を付けたりもした。
このような状況が世相に混乱を招き官憲の介入に及び、当時は一般的に「イカ揚げ」として親しまれていた娯楽は禁止されることになった。
したたかな庶民は同じ遊びを「イカ揚げ」ではなく「タコ揚げ」だと屁理屈で逃げ道を作り、官憲も厳しくは追及しなかった。このため、以後「タコ揚げ」として周知されるようになったという。
長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された。
(ウィキペディアの「凧」の記事から引用)
ガラスの粉でコーティングしたタコ糸。
刃物を仕込んだ雁木。
こんな凶悪なものが上空いっぱいに飛んでいたら、安心して町なかを歩けない。
うっかり大名行列なんかに落としたら、ドローンテロと同じようなことになりかねない。
改易になった外山伝六も、よほど悪質な凧をあげていたのだろう。
そしてそれを、絶対に落としたらいけない建物、もしくは人物の上に、落っことしてしまったのではなかろうか。そうだとするなら、改易の理由とされるのも理解できる。
そう考えると、「凧あげ改易事件」は、最初に書かれている「大岡家殺人事件」と同じくらい、当時としては社会不安を煽るヤバい出来事だったことになる。
だけど、改易理由に「そのほか色を好み不行跡」などと付記されているのを見ると、外山伝六という人は、単に非常識で、はた迷惑な人だったような気がする。
ところで、上の二つの事件は、貞享元年(1684年)に起きたことなので、延宝2年(1674年)生まれの朝日文左衛門は、当時まだ十歳だったことになる。
文左衛門が「鸚鵡籠中記」を書き始めたのは元禄四年(1691年)からなので、この日の記事は、当日に書かれたものではない。
人づてに聞いた話なのか、裁判や刑罰の記録などを見たのかはわからないけれども、極めて怪しい出来事が同じ日に起きていたと知ったら、書き留めておきたくなる気持ちは分からなくもない。
文左衛門の趣味なのか、「摘録」である岩波文庫版を編纂した塚本学氏の好みであるのかわからないけど、この次の日記もすさまじい猟奇事件なのだけど、今日はもうお腹いっぱいなので、そのうち改めて書いてみようと思う。
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