「朝日文左衛門の食卓」(大下武 著)
ウォーキング中に立ち寄った書店で見かけて、面白そうだったので購入した本。
朝日文左衛門重章という人は、江戸時代の尾張藩士で、元禄4年(1691年)から『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)という日記を書き始めたのだという。
若い頃から晩年に至るまで、酒好きの食道楽で、芝居好き、釣りなどのアウトドアな娯楽も大好きという人物だったようだ。
ウィキペディアによると、日記が書かれた期間は26年8ヶ月、日数8,863、冊数37、字数200万と、たいへんな分量で、元禄時代の武士の生活を知る上で極めて貴重な資料だったという。
朝日文左衛門の死後、『鸚鵡籠中記』は丁寧に全文清書された上で、尾張藩の藩庫に納められ、そのまま死蔵されて、昭和になるまで公開されることがなかった。
非公開にされていた理由は、藩政批判や、藩主がらみのゴシップなど、尾張藩的によろしくない話がたくさん書かれていたかららしい。
朝日文左衛門が現代に生まれていたら、幅広いジャンルの話題でバズったり炎上したりを繰り返す、有名ブロガーになっていそうな気がする。
さて、その日記の中身だけれども、「朝日文左衛門の食卓」では、献立や料理の解説や、それに絡んださまざまな事物の考証などがメインなので、日記自体はあまり引用されていない。
料理の話が目的で買った本なので全く不満はないのだけど、ほんの少しだけ出てくる料理以外についての記述がものすごく「変」なので、どうにもそれが気になってしまう。
たとえば、十七歳くらいの朝日文左衛門が友人たちと外食した日のことを書いた日記には、これが自分の息子だったら「あんた一体何やってんの?」と小一時間は問い詰めたくなるような、おかしな話が書かれている。
孫引きしてみる。
夜、余、龍泉寺へ行く。龍泉寺近くなりて田村新八・三宅九郎三郎・相原藤蔵、加藤伴六盤礴(あかはだか)になり、側なる小池にて水を浴ぶ。
茶屋太郎兵衛所にて休息し、酒を呑まんと、嶋さよりを焼かせ、粥を炊かせ食う。
帰路、人家離れたる松原に、婆一人臥せてあり。病人か不審し、また大根を抜き担いで帰る。丑八刻。
(元禄五・一〇・一七)
「朝日文左衛門の食卓」 19頁
わざわざ夜になってから、友人たちと連れ立って寺に出かけている。
「朝日文左衛門の食卓」によると、龍泉寺は、文左衛門の自宅から十キロほどの距離だったらしい。
ちょっと早歩きしても二時間はかかる距離なのだから、昼のうちに出掛けろと言いたくなるけれども、文左衛門と仲間たちは、なぜか夜の行軍を選択した。
そして寺に到着する手前の池で、全員で真っ裸になって水浴びしている。
夜中に池に飛び込んで水浴びして騒いでいる素っ裸の男子高校生の集団がいたら、いまの時代なら確実に通報案件だろうけれど、元禄時代では普通だったんだろうか。よく分からない。
「盤礴(ばんばく)」という熟語の意味は「広大なさま」「あぐらをかいて座る」らしいけど、朝日文左衛門の日記では「あかはだか」というルビがふられていて、文脈からも真っ裸という意味で使われたようだ。
漢籍だと「荘子」に用例があるようだけど、日本の文献では、空海の書いた「三教指帰」という書物が「盤礴」の初出らしい。(小学館「日本国語大辞典」第二版)
近代の使用例では、田山花袋の「孤独と法身」(初出は1917年11月1日「文章世界 第十二巻第九号」)という作品の冒頭に、「盤礴」が出てくる。
東京の夏は色彩が濃くつて好い。山や田舎と違つて、空気にもいろいろ複雑した色や感じがある。行かふ女達の浴衣の派手なのも好ければ、洋傘(パラソル)の思ひ切りぱつとしてゐるのも好い。朝蔭の凉しい中だけ勉強して、日影が庇に迫つて来る頃からは、盤礴(ばんぱく)して暮らす。夕方近くなるとカナカナやみんみんが鳴き出す。それをきゝながら、行水をザツと浴びて、庭樹の下などを漫歩そぞろあるきする。いかにも夏らしくて好い。
田山花袋「孤独と法身」 (青空文庫より)
青空文庫を全文検索した限りでは、この作品以外に「盤礴」は見当たらない。
田山花袋は幼いころから漢詩文を勉強していたらしいので(ウィキペディアの記事より)、「盤礴」などという難しげな単語にも馴染んでいたのかもしれない。
真っ裸で水浴びしている朝日文左衛門も、そこだけ見ているとアホのようだけど、おそらくは武家の子息として幼いころから漢学をしっかり学んで教養を身に着けていたのだろうと思う。もっとも、しっかりした教養がなければ、藩庫に納められるレベルの日記を書き続ける文章力など育たなかっただろう。
さて、田山花袋は東京の真夏に「盤礴」して水浴びしているけれど、朝日文左衛門たちが龍泉寺に出かけた元禄五年の十月十七日はいまの十一月二十四日で、しかも夜になってからの出発だというから、それなりに肌寒かったのではないかと思う
ちなみに現在の愛知県名古屋市の十一月の平均気温は、17度~7度とのこと。水浴びに適した気温とは言い難い。
片道十キロの道のりを普通に歩いていたのでは、水浴びしたくなるほど体温が上がるとは思えないから、汗だくになるほど急いで移動したのだろう。途中、ほとんど走っていたのかもしれない。
それほど熱烈な勢いで龍泉寺に向かったらしいのに、日記には龍泉寺で何をしたのか、全く書かれていない。そもそもほんとうに龍泉寺に立ち寄ったのかどうかも怪しい。
池で行水したあと、文左衛門と仲間たちは「茶屋太郎兵衛所」なる場所で、酒を飲み、「嶋さより」と「粥」を食べている。「嶋さより」はサンマのことらしい。
「茶屋太郎兵衛所」について、「朝日文左衛門の食卓」では「門前の茶屋」と解説している。茶屋というとお茶にお団子のイメージだけれども、江戸時代には食事を出す「料理茶屋」というものもあったそうなので、そういう店だったのかもしれない。
文左衛門たちの夜のジョギングは、お寺参りなどではなく、飲み会が主目的だったのではなかろうか。
遊び盛りで体力の有り余っている若者たちが、居酒屋にたまってワイワイ騒いでいる姿が目に浮かぶ。
だけど、「茶屋太郎兵衛」というのは、なんだか料理屋の屋号らしくない。
もしかしたら、文左衛門たちは個人の自宅に押しかけて、酒や食事をたかった、もとい、御馳走になったのではなかろうか。徳川家康に仕えた豪商の茶屋四郎次郎の子孫が尾張藩に行って尾州茶屋家を創設したというので、その関係者からしと思わなくないけれども、そこのところはちょっと私には調べようもないので保留とする。
楽しく酔っぱらった若者たちは、再び十キロの道のりを歩いて帰ることになる。
行きと違ってジョギングはしなかっただろうから、二時間か、それ以上かけて歩いたのではないかと思う。
その途中の松林のなかで、老婆に遭遇する。
「婆一人臥せてあり。病人か不審し」と書いているけれど、倒れている老婆が病人かどうかを「不審」した(疑った)だけで、助けたとは書いていない。
「おい、ばあさんが倒れてるぞ」
「げ、死んでる?」
「いや、生きてるっぽい」
「病気じゃね?」
「寝てるだけかも」
などと騒いだあと、そのまま見捨てて立ち去ったかもしれない。
そのあと「大根を抜き担いで帰」ったようだ。
丑八刻は、午前二時。
合法的な大根掘りとは思えない。
尾崎豊「15の夜」のメロディで、「盗んだ大根を担ぎ去る~」と歌いたくなってくる。
この武家のインテリ青年、ほんと、何やってるんだろう。
「鸚鵡籠中記」という日記のタイトルは、オウムのように聞いた話をそのまま口真似して書いているという意味でつけられたのだという説があるそうだ。
でも、ただ口真似という意味だけなら、「籠中」という言葉を入れる必要はないはずだ。
籠のなかのオウムの日記。
見た目が華やかで頭もいいから周囲の人々に愛され、珍しがられる舶来の鳥だけれども、好きに生きる自由はない。籠から逃げ出したとしても、野生では生きられない。
朝日文左衛門にとって、尾張藩士としての人生は、もしかすると手狭で息苦しいものだったのかもしれない、などと想像してみる。
料理以外の記事も読みたいので、ほかの本も探してみよう。