こんばんは。
卒業式
快晴だけど強風が吹き荒れている。
暖かくなるという予報だったけど、家の中はだいぶ寒い。
そんな天気の中、末っ子の中学の卒業式が行われた。
参列した亭主によると、新型コロナウィルス対策のため、会場となった体育館は窓が開けられて十分な送風が行われ、客席の椅子と椅子の間隔は、可能な限りあけられていたとか。
その寒々しい会場で、来賓の挨拶もなく、一人づつの証書の授与もカット、生徒の入退場も足早で、この上なくスピーディに式が行われたとのこと。
末っ子は、親しい友人たちと写真を撮り、帰りにみんなで寄り道してタピってから、卒業証書と英検準二級の合格証書を持って帰ってきた。
3年間、ほんとに早かった。
次の3年は、たぶんもっと早いのだろう。
覚悟しとこう。
高校の入学式は日時未定。
どうなることやら。
報道
数日前、相模原の障害者施設の事件の被告に、死刑判決が出たという記事を読んだのだけど、ブログに思いを書く気にならず、放っていた。
被告には反省や後悔の気持ちはないらしい。
遺族の方々の中には、あのような歪んだ思いに取り憑かれて人生を捻じ曲げ、おそらくは死刑となって終わるであろう被告の人生を哀れむ気持ちを語っておられる方もいたようだ。
その気持ちは私にもある。
同情からの憐憫とは違う。
もったいないと、心底思うのだ。
これは、重度障害を持って生まれた子どもを持つものだからこその思いであるのかもしれない。我が子のためにどんなに望んでも、祈っても、決して得られない健常さと可能性を、あの被告は持っていたのだろうに、と。
恵まれた、かけがえのない人生を、どう考えても詰みしか見えないテロリズムに費やして、あっけなく死んでしまうことの、もったいなさ。
生産性がないとされる障害者の生存を否定する被告の主張に対して、人道的な非難がさかんに行われたけれども、被告の心には何も届かなかったようだ。
それはそうだろう。政治的な目的を実現するために、あえて殺戮という非人道的な方法を選んだテロリストに、殺戮は非人道的だと訴えても、当然だと思うだけだろう。
報道をきちんと見ていないからわからないのだけれども、被告の主義主張を、人道や感情的な面からではなく、政治的、行政的にまともに批判、論破した人はいないのだろうか。
弱者の切り捨ては、どんな社会でも多かれ少なかれ起きてしまうものだと思う。
けれども、全体主義が優勢になって、国の不利益となる人々を合法的に殺害するということをやった国家って、だいたい自滅していなかっただろうか。前世紀の日本もだけど。
弱い者を合法的に殺して国の財政を維持する政策など、いずれは亡国につながる下策だと、わかりやすい理由を示して断言する識者は居ないものか。