こんばんは。
腸活を頑張っているものの、体調改善は一進一退。
ここ数日は風邪気味で、胃腸の調子もイマイチな感じ。
やりたいことはたくさんあるけど、無理しないことにして、静かに過ごしている。
小説は読めるけれども、調べものはきつい。
昨日は久々に万葉集を読もうとして、辞書を引いたり索引を開いたりしていたら、興味が深まる前にしんどさが勝ってしまって、途中で断念。
それでも一日頭で転がしていて、なんとなく情景は見えてきた。
お友達に解釈(と挿絵)を約束した歌は、これである。
麁玉(あらたま)の寸戸(きへ)が竹垣編目ゆも妹し見えなば我恋ひめやも
(万葉集 巻第十一 2530)
「麁玉(あらたま)」と「寸戸(きへ)」は地名。いまの静岡県浜松市あたりらしい。
ウィキペディアによると、古代の藤原京出土木簡に「荒玉評」なるものを確認することができるのだそうで(この「評」についてはまた改めて調べ…られたらいいな。なんか日本史研究上の論争になってるものらしい)、大化の改新以前から開発が行われていた地域であるようだ。
また天竜川は「麁玉川」と呼ばれていたそうで、「続日本紀」には大きな水害を起こしたという記事があるとのこと。(まだ直接確認できてない。そのうち読もう。)
その「麁玉(あらたま)」の「寸戸(きへ)」で、他人の家の竹垣の網目越しに覗き見をしている不審者がいる。
どうやら、まともに姿を見たことのない女性を思い焦がれているらしい。
けれども竹垣に隙間がないのか、あるいは家の中の人が用心深いのか、女性の姿は一向に視界に入ってこない。
見えないから、ますます見たくなるし、恋しい思いも膨張してくる。
ちょっとでも見てしまえば、なんだこんなものかと思って冷めてしまうと、本人も薄々わかっている。その程度の思いなのだけれども、見えないから執着から解放されず、いつまでも必死の形相で竹垣の網目に貼りついている。
竹垣がどんな様式のものだったのかは分からないが、(けんにんじがき)のように、向こう側が見えないように、隙間なく竹を重ねて編んだものだったのかもしれない。
Amazonって、ほんとになんでも売ってるのだなと感心する。
「寸戸」の「竹垣」がこの様式のものだとすると、竹と竹の隙間からの覗き見は難しそうだ。
家の者に見つかって竹垣を追われるころには、覗き男の顔には竹の縦目の型がくっきりとついて、情けないありさまだったことだろう。
さて、どんな挿絵をかくべきか。
もう睡眠薬が効いてきたので、続きはまた明日。