こんにちは。
新型肺炎関係からの脱線
Twitterを眺めていたら「#検査拒否」というハッシュタグが目についたので、感染している可能性のある人が検査を拒否しているのかと思ったら、逆だった。
驚いたことに、東京と大阪で、重篤な肺炎にかかって入院しているような方々が、病院や保健所にコロナウィルス検査を依頼しても、感染源の特定が可能などの条件に合致しないというので断られているというのである。
検査を求めている人がたらいまわしにされている、なんていう書き込みもある。
本当なんだろうか。
だとしたら、どういう判断で検査を拒否しているのか、知りたいと思う。
検査を断る事情があるのだろうけれど、理由がはっきりしないまま検査拒否が続くと、発熱した患者さんたちや、その周辺から、パニックがはじまりそうに思う。
もう起きてる気もするけど。
患者差別や、海外から帰国した人や外国人への差別みたいなことも、増えてきそうで、気が重くなる。
と思ったら、もうこんなニュースがあった。
記事の一部を引用してみる。
新型肺炎対応の医師ら職場でバイ菌扱い 学会が抗議声明 [新型肺炎・コロナウイルス]:朝日新聞デジタル
日本災害医学会は22日、新型コロナウイルスに対応した医師や看護師らが職場内外で不当な扱いを受けているとして、抗議する声明を出した。「バイ菌」扱いするいじめを受けたり、現場で対応したことに謝罪を求められたりする例が相次いだと訴えている。
この学会は、医師、看護師、救急隊員ら災害医療や防災に携わる個人・組織でつくる学会で、阪神・淡路大震災が起きた1995年に発足した。多くの医師や看護師らが、災害派遣医療チーム(DMAT)として、中国・武漢から政府のチャーター便で帰国した人や、横浜港でクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客乗員への対応にあたった。声明では、こうした活動がなければ、より多くの人が重症化して命が失われた可能性があると指摘した。
ところが、学会によれば、医師らが不当な扱いを受けるケースが続出。自分の身を危険にさらして活動したのに、職場で「バイ菌」扱いされたり、子どもの保育園・幼稚園から登園自粛を求められたりしているという。さらに、職場の上司から現場で活動したことに対する謝罪を求められた例もあった。当事者から「悲鳴に近い悲しい報告」が寄せられているとしている。
医療機関でさえ差別があるとは……。
なんというか…「徳」の低い話が多いというか…
そういえば、有徳の人、みたいな言葉、ちかごろではまず耳目に入らない。
学校の教科の「道徳」はよく聞くけど、上の子どもたちは学校を終えて成人してるし、末っ子はミッションスクールだから「道徳」ではなく「聖書」の授業がある。
「聖書」の時間には、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という教えに関連して、「善きサマリア人のたとえ」の話を必ず教わっているはずである。
強盗にあって半死半生が道に倒れているのに、地位の高い祭司やレビ人は見て見ぬふりで素通りしていった。倒れている人を親身に助けたのは、社会的地位の低いサマリア人であった、という話である。イエスはこのたとえ話を律法学者に聞かせて、「だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と問いかける。すると律法学者は「その人に慈悲深い行いをした人です」と答える。
災害派遣医療チームに入った人たちを職場で「バイ菌」扱いする医療従事者は、聖書のなかの祭司とレビ人に相当することになるだろう。
公立の学校の「道徳」では、危険な感染症に関わる仕事に従事した人を「バイ菌」扱いしてはいけないとは、教えていないのかもしれない。
そりゃ感染症に対しては厳重に対応すべきだとは思うけど、「バイ菌」扱いというのはただの人格攻撃であって医療的な処置ではない。それとも人格攻撃と差別行為で「バイ菌」を予防できると、医学部や看護学校では教えているのだろうか。まさかね。
ふと思いついて、ウィキペディアで「徳」という項目を引いて読んでみた。ちょっと引用。
徳(とく、希: ἀρετή アレテー, 羅: virtūs, 英: virtue)は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。
徳は卓越性、有能性で、それを所持する人がそのことによって特記されるものである。人間に備わって初めて、徳は善き特質となる。人間にとって徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものである。これは天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となる。
徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。
徳は人間性を構成する多様な精神要素から成り立っており、気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気、名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などが個々の徳目と位置付けることができる。
「均整のとれた精神」を、「天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となる」か。
耳が痛い。(´・ω・`)
今日の引用
せっかくパソコンで書いているのだから、雑談ばかりで終わらずに、意地でも読書の話をしたい。
(何の意地だかよくわからないけど)
といっても、今日は教会の日曜礼拝に行って聖書を読んだだけで、他に本を読んでいない。
なので、手元にある本から抜き書きしてごまかすのである。
それにしてもなぜ詩歌ははずかしいのか。近代詩はだいたいセカイ系です。あるいは中二病(これらの言葉は、今も使われていますか? 若者言葉がおじさんに届くには時間がかかります。たぶん何光年かの距離があるのでしょう。もし今は別の言葉に置き換わっているなら、編集部宛てにお知らせください)。
長山靖生「恥ずかしながら、詩歌が好きです 近現代詩を味わい、学ぶ)
著者の長山靖生氏は、どうやら私と同い年で、歯医者さんであるらしい。
「セカイ系」は、知っているけれども、使用語彙ではない。自分では使ったことがない。
「中二病」は、うちに現役中学生がいる関係でときどき使う。「中二臭い」とか「中二入ってる」とかいう形で使うこともある。
詩歌が、恥ずかしい。
これはどうだろうか。
四十年ほど前、大学構内で、
「ねえ、詩人の西脇順三郎って知ってる?」
という痛ましいナンパをしている男性を見かけたことがある。
他人事ながら、あれは非常に恥ずかしいと思った。(見事に玉砕していたし)
現代詩でナンパするような人が令和の時代にいるとは思えない。
いたとしても、成功率は限りなくゼロに近い予感がする。
そんなこんなで、現代詩とはあまり御縁がないまま暮らしていたけど、子育て中に、強烈な現代詩の本に出会ったせいで、ちょっと考え方が変わった。
いまはちくま文庫に入っているようだけど、私が購入したのは、表紙の写真がおもしろいハードカバーのほうだった。
この本、いま手元に見当たらないのだけど、十二年前に書いた日記を発掘したので、少し手直しして転載しておく。
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2008年01月06日
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年末に注文した(とあるジャンルの)小説の山を読み終えたので、小説以外の本を読み始めた。
面白いという話は前々から聞いていたけど、読んでみて面白くなかったら悲しいなあと思って、ずっと買わずにいたのだが、年末、息子のお習字に使えそうな詩があるかもしれないと思って、買ってみたのだ。
一気に半分、読んだ。大当たり……のような気がする。
冒頭、この詩に打ちのめされた。
人生八王子。
一読して、今すぐ八王子に引っ越したい衝動にかられた。
人生新都心
なんていうのも、悪くはないかもしれないが、やはり八王子には負ける。
何が負けるのかよく分からないが。
「痴呆系」(データハウス刊)という本に掲載されていた「作品」とのこと。作者は地獄のような老人病院に入院している、認知症の患者さんであるという。
オムツの中が犯罪でいっぱいだ。
この老詩人は、"悪の組織"がはびこるオムツのなかに、盗聴器(実は自分の補聴器)を仕掛けていたという。(お食事時の方はリアルに想像してはいけない)
本書は、行儀のよい文壇や詩壇から切り離された場で生まれていく、生々しい「詩」を紹介するだけでなく、そうした言葉たちの背景にあるグロテスクな社会の現状をも暴いて読ませてくれる。
認知症の方々の実人生を、社会から切り離して隠蔽して、介護する側にとって都合のいい弱者に仕立て上げている、というようなことである。詩には、その切り離されて隠ぺいされた現実が生々しく迸っているのだ。
社会から切り離して隠蔽というところは、重度の知的障害児の場合もほとんど一緒だなと思った。
本書では、池袋で餓死した母子の残した「覚え書き」(書いたのは老母)も、作品として紹介されていた。息子が重度の障害者で、亡くなるまで寝たきりだったということを、この本を読むまで私は知らなかった。
死刑囚の俳句作品を紹介する章には、痛烈な俳壇批判があった。囚人たちの句集を刊行した際に、既存の俳壇側から、三行に分けて書いたのはよくない云々あーだこーだと、俳句の作法の押しつけじみたつまらないケチが、山ほどつけられたとのこと。そんなだからつまらない句しか作れなくなるのだろうと、私でも思う。
「人生八王子」は、いずれ息子に毛筆で大書させたい。
この現代詩は、少しも恥ずかしくない。
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息子には、まだ「人生八王子」のお習字をさせていない。
学校を卒業してしまって、毛筆をやる機会がないのだけど、末っ子の習字道具を借りて、いつかやってみようか。
日記のなかの「池袋で餓死した母子」については、本が出ているようだ。
「痴呆系」は、こちらである。
こちらも、ものすごい本だった。