今日の健康観察
体調まずまず。
気分も落ち込まずに維持出来ている。
芸術の「小さき神」
先日読んだKaoRi.氏の文章が、ずっと頭の中にある。
私は荒木経惟氏の写真がずっと前から嫌いだったけど、この文章を書かれたKaoRi.氏は好きだと感じる。とても残念だけれど、あの(私が苦手で見たくないと強く感じる)写真群がなければ、KaoRi.氏を知ることも、このかたの文章に触れる機会もなかった。
その時点で、私にはもう荒木という人の作品をどこかで受け入れるしかなくなってしまう。
同じように私は太宰治の作品が嫌いだけれど、作品のなかに出てくる女性たちが決して嫌いではなく、小説のモデルとなった女性たちの実人生に思いをはせることも多い。でも作品のなかの女性たちは太宰の文章によって作中に命を得た存在だ。彼が書かなければ、彼女たちを知ることはなかっただろう。
その時点で、私は結局太宰治の作品を、感情的には嫌悪したまま、受け入れているということになる。
そんなことを思いつつ、悶々としながら、何か自分に別視点を与えてくれる文章がないものかと、いろいろ探し回っていた。
で、Amazon Kindleのunlimitedで、夏目漱石の評論と小品がたくさん入っている本を見つけたので、パソコンでダウンロードして、ちらちらと読んでいたら、アタリを見つけた。
漱石全集 第9巻 小品・評論・雑篇
(原本出版年 1918年 原本出版者:漱石全集刊行会)
いまからちょうど100年前に出た漱石全集だ。
太宰は生まれているけれどまだ子供、アラーキー氏は存在していない時代にかかれたものだ。
原本の写真版なので、旧字旧仮名はそのまま。
気になった文章の一部を、読みやすく新字新かなに改めた上で引用してみる。
自然はもとより芸術家のために存在するものではない。けれども自然のうちに芸術を発見するのは芸術家である。この発見したる芸術に永久の生命を与えんがために、他物の混交を防いで、これを安全の地位に置くものはやはり芸術家である。最後に、この安全を計る手段として、変わりやすい自然を依頼せずに、自らその影とも見るべき第二の自然を創設するのもまた芸術家である。自然を写す芸術家が、自然に対してみだりに奴婢の感を抱かずして、常にどこか小さきゴッドのような気宇を有するのはこれがためである。
この文章は、石井柏亭という画家(版画・洋画)の「新日本画譜 (上巻)」に寄せられた序文である。
読んでいて、ふと思いついて、この文章のなかの「自然」を「女性」に、「芸術家」を「写真家」に変換してみた。
-------------------------------------
女性はもとより写真家のために存在するものではない。
けれども女性のうちに芸術を発見するのは写真家である。この発見したる芸術に永久の生命を与えんがために、他物の混交を防いで、これを安全の地位に置くものはやはり写真家である。
最後に、この安全を計る手段として、変わりやすい女性を依頼せずに、自らその影とも見るべき第二の女性を創設するのもまた写真家である。
女性を写す写真家が、女性に対してみだりに奴婢の感を抱かずして、常にどこか小さきゴッドのような気宇を有するのはこれがためである。
-------------------------------------
「小さきゴッドのような気宇」が、モラルハラスメントや性的虐待に変質していくかどうかは、被写体との関係性によるだろう。
そして、自らの創作物の素材となる現実の人物(女性に限ったことではないと思う…)のプライペート領域に踏み込み、他者がみだりに侵入すべきではない心の内側を敢えて踏みにじりながら創作し、それを自らの芸術とするような行為は、荒木経惟氏にはじまったものでもないだろう。
才能ある芸術家、創作者、どこか「小さき神」のようにさえ見えるものの信者となってしまう前に、自分の精神、心身が、神のように見えなくもない他人の生け贄として、むざむざと屠られてしまってもいいものかどうか、よく考えるべきだと思う。
Twitterでみかけた、masako todaという方の次のツイートに、強く共感する。
女たち、女たち、女たち。金子光晴の詩に出てくる、吉行淳之介の小説に出てくる、女たち。島尾敏雄の、井上ひさしの、妻たち。愛の名の元に行われる抑圧を、甘受することの中にある陶酔も自己破壊も、表裏一体。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
私に言えることは、女はもうそんなふうに生きてはいけないんだよ、ということ。