縄文時代の人の気持ちはわからないけど
映画「ライアの祈り」を、最後まで鑑賞。
後半号泣。
心にきた。
ストーリーのなかで、一万年続いた縄文時代と、現代社会のさまざまなものが、自然にリンクしていく。
障害者福祉。
戦争。
女性の不妊。
離婚と再婚。
性同一性障害の問題。
生きる意味。
映画の始まりの方で、暑苦しい考古学研究者(でもこの人が物語のヒーローだ…)の熱弁で、まず心引かれたことは、当時のコミュニティの遺跡には、障害者を支えて共に生きていた形跡があるという話。
人骨調査で、生まれつき障害を持っていた人が、ちゃんと成人していたことが分かるというのだ。
映画の中では、なぜ縄文時代が一万年も続き、小さな一集落が何百年も存続したのかということが、繰り返し問われている。
争わず、平和で、分かち合って暮らしていた社会だったからだろうと、映画の人物たちは推論する。
集落を全滅させるような、恐ろしい感染症も、大災害も、戦争の虐殺も、なかったのだろう。
それでも、当時の人は、祈りの像を作って残した。
どんな祈りがこめられたのか。
穏やかに推移する時代にあっても、人の悲しみや苦しみ、願いは、いまとそう変わらなかったのかもしれない。
舞台になっている八戸には、半世紀ほど前に、ちょっとだけ、住んだことがある。当然だろうけど、街の面影は、もうすっかり変わってしまった。
上のAmazonのリンクを貼るときに気づいたのだけど、小説もあるようだ。
読んで見よう。