湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

箇条書きの疲れる日記

 

友人に犬のぬいぐるみをもらった。
亭主がいぬ坊という名前をつけた。

それに乳児がこんこんと何かを語りかけている。

 

「あのなあんたなあイキモノは骨ちゅうもんがかんじんなんやでわかってるか」

 

そんなことを言っている気がする。

 

五ヶ月も人間していれば言いたいことも溜まるものだ。


いぬ坊は黙って布団の重石になっている。あるいは黙ってなめられている。

 

そういう隣室の気配に耳を傾けながら、私はこうして書き物をする。BGMは童謡メドレー。だるい。

 

 

数日来の胃痛が激化して一昨日はとうとう吐いた。つわりを悪夢に見ているのかと思って日の出前の暗がりに起き出したがそんなわけはない。何かの理由で胃が荒れているのだ。

 

全く同じものを食べている亭主に聞いてみたけれど胃の悪い気配はない。何だろう胃痛の原因、と思いながら洗濯物を干そうとしたら、ぶら下がった洗濯ばさみが、ちらちらと二重三重に増えて湧いた虫のように見えるので切り捨てる青竜刀が欲しくなった。それで気づいた。

 

視覚の異常のせいで、私はいらいらしているらしい。
煮え立ったストレスがいまにも喉元から溢れて足の踏み場が洪水になりそうだった。目が悪くなってちょうど五ヶ月。そろそろ無意識的な忍耐力は臨界状態にあるらしい。

 

 

自前のシュールレアリズム画像もたまに見るならともかく、日常全部となると拷問に近い。

 

放っておけば狂暴化しかねない神経を意識的に慰撫する必要があると悟って、ひさびさに一人で外出をした。

 

乳児を亭主に預けての外出だから、遠出はできない。
電車一本の街にある大きなソフト屋に出かけた。

 

買い物は二つ。
プレイステーションのカーレースのソフトと、マックのパソコンで心穏やかにかつ簡単にインターネットするために必要なあれこれの入ったパック。

もっといろいろ探して買いたかったけれど、ああいうちらちらする品物のたくさんあるところに長居すると青竜刀が必要になりそうなので早々と帰宅した。それでも家に帰ったころには何とはなしにすっきりしていた。

 

任天堂の新しいゲーム機が発売になっていた。

その横でスーファミの本体を投げ売りしている。あれが売り出されたのは結婚する前の年だった。発売日に車で郊外のオモチャ屋に走ってみたけど予約客のみの販売でしょんぼりしながら帰ったのを覚えている。翌日韓国人留学生の友人とファミコン雑誌を舐めるように読んだ。マックを買わなくてもシムシティができる。友人と私はそのことだけで何時間も語り明かした。ついでに兵役に行く前に学費をゲーセンで使い込んで踏み倒した話とかも聞いた。

スーファミの品切れ期間は長かった。友人はしびれを切らして、当時超お買い得ということになっていたマックのクラシックを大学生協で衝動的に予約して買ってしまった。衝動に走れるだけのお金がなかった私は、スーファミの入荷を貝のようにじっと待った。手にいれた晩はシムシティのオープニングをかけっぱなしにして眠った。今でもあのソフトのBGMはうつくしいと思う。


失うこと、損をすることを極端に嫌って結局じわじわと全てを喪失していくのがオバハン化した女の特色なのだと亭主がいう。

男のオバハンもいるんだそうだ。
飛べないおやじ。私はどうだろうかと自分を振り返るがよくわからない。
生来の浪費癖は一向におさまらない。

目が動かなくて読めもしない本を山ほど買う。
亭主が遊ぶソフトを買う。
乳児にぬいぐるみを買う乳児服を買う。

自分の服は買わない。
押し入れから二十歳過ぎに買ったジャンパースカートが出てきたけれど着用不能になっていた。五秒考えて捨てないことにした。
目がよくなれば手さげ袋ぐらいは作れるだろう。私はオバハンだろうか。

今日は乳児を抱いて本屋に行った。

大江せんりとかいう古風な名前の歌手の曲が何度も何度もかかっていた。愛みたいなもんじゃなくて本物の愛をあげるよ。そんな曲。インタネットの本を開いたら、

どこかの国の宗教抗争で虐殺された死体を敷いた広場の写真が載っていた。なにが本物の愛かなんていったい誰が分かるだろう。大江せんりの歌詞が気の毒なほど愚かに聞こえた。


ゆうべ散々がんばってインタネットの接続には成功した。
がんばる間、乳児にはかなり可哀想なことをした。私が何かに没頭しているように見えるとガソリンに火を放ったようにあの乳児は泣き続けるのだ。電話もいけない。読書もいけない。掃除は許容する。けれど長い食事は許さない。泣いて泣いて泣きつづける。

乳児は何が好きなのだろう。抱いてあやしただけではおさまらない。
しかたなく顔をのぞき込みながら、へたくそな「ぞうさん」を歌ってやったら、
日だまりで花が咲いたように笑い出した。あの歌は語りかけと応答だけで出来ている。人間はさびしい。とても。

亭主は原稿書きの仕事が入るとゲームの時間が長くなる。締め切り直前に書斎をのぞくとたいてい麻雀か将棋をやっている。居間にいるときにはテトリスコラムスか五目ならべか「まきがめ」にハマっている。

 

それでも期日の前の日にはちゃんと仕上がるのだからなんだかんだ言ってもすごい。

 

夜明けごろにコドモのおっぱいで起き出したらダイニングテーブルに印刷したての原稿があがってて「赤を入れよ」と書いてあった。十年来それが私の仕事である。仕事にいいゲームを探して買ってくるのも。


インタネットを繋いだといっても特に何か画期的なことをするでもない。

いまのところ、どこかのホームページに貼ってあるという亭主の写真を探して
見てやろうというならいしか目的はない。

インターネットを逍遥して、馬鹿げたものを、たくさん探そう。

ささやかな馬鹿げた目的ほど私を元気にするものはないのだから。

 

本も読めない、家事もできない、育児するデクのぼうみたいな私であるが、こんなときには「矜持」という言葉が喉に刺さった傘の骨みたいに意識のなかでクローズアップされてくる。何がなくても骨がいっぽんっていう矜持。だけど骨だら喉にささるとちょっと痛い。きちっとたたんだ扇子というのもいい
かもしれない。名人が持てば日本刀が切りつけてきてもぺいっと叩き返せるか
もしれない、そういう扇子。

 

つかれたからおしまい。

 

(1996年11月11日)

※過去日記を転載しています。