湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

和歌のメモ(万葉集・依羅娘子の歌)

 

柿本人朝臣麻呂の妻依羅娘子(よさみのをとめ)の、人麻呂と相別れし歌一首

 

な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひざらむ

 

(なおもいと きみはいえども あわむとき いつとしりてか あがこいざらむ)

 

万葉集 巻第二 相聞 140)

【意訳】

 

柿本人麻呂の妻である、依羅娘子が、人麻呂と別れた時に詠んだ歌

 

「僕に会えないからって、くよくよ思い悩まないでね」って、あなたは言うけれど、次に会えるのがいつなのか分かっているなら、あなたを思ってこんなに苦しんだりしないのよ。

 

単身赴任?

上司と出張?

仕事なんだから仕方ないけど、予定くらい、はっきり教えてよ!

 

 

この歌の前に、柿本人麻呂石見国の妻と別れた時に詠んだという長歌反歌がある(131-139)。

 

この依羅娘子の歌は、拾遺和歌集では少し形を変えて、なぜか人麻呂が依羅娘子に詠んだ歌として掲載されている。

 

題知らず

 

思ふなと君はいへども逢ふ事をいつと知りてかわが恋ひざらむ

 

人麿

 

拾遺和歌集 巻第十二 恋 756)

 

「会えなくても思い悩むな」と言ったのが、夫だったのか妻だったのかで、話は全然違ってくる。

 

万葉集の詞書に従って、妻のほうが詠んだ歌として意訳を考えたけれども、人麻呂の長歌も短歌も、猛烈に妻に恋着していてヤンデレ一歩手前な感じなので、もしかしたら、妻のほうが人麻呂に「しっかりしなさい!」と言った可能性も、なくもないかもしれない。

 

 

 

和歌のメモ(広河女王と穂積皇子)

 

広河女王の歌二首

穂積皇子の孫女(めうまご)、上道王(かみつみちのおおきみ)の女(むすめ)なり

 

恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から

 

万葉集 4巻 694)

 

(こいぐさを ちからぐるまに ななぐるま つみてこうらく わがこころから)

 

【だいぶ盛った意訳】

 

恋すると生えてくる恋草というものがあるとするなら

 

私の庭は恋草ぼうぼう

 

刈っても刈っても生えてくるから

 

きっとトラック七台分はあるんじゃないかしら

 

それが全部私の心から生えてくるんだから、恋って恐ろしいものよね

 

恋は今はあらじと吾は思れるをいづくの恋ぞつかみかかれる

 

(こいはいまは あらじとわれは おもえるを いずくのこいぞ つかみかかれる)

 

万葉集 巻4 695)

 

【意訳】

 

もう!

なんなのよ!

 

恋なんてもう絶対しないって思ってたのに!

 

どっかに隠れてた恋の奴が、いきなり私につかみかかってきたのよ!

 

おかげで心の中ぐちゃぐちゃじゃないのよ!

どうしてくれるのよ!

 

広河女王は、天武天皇の曾孫。

 

ままならない恋に振り回されたらしいのだけど、詳細は不明。

 

彼女の祖父の穂積皇子も、つかみかかってくる恋の歌を残している。

 

家にありし櫃に鍵さし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて

 

(いえにありし ひつにかぎさし おさめてし こいのやっこの つかみかかりて)

 

右の歌一首は、

穂積親王、宴飲(うたげ)する日、酒酣(たけなわ)なる時に、好みてこの歌を誦みて、恒の賞(めで)としたまひき。

 

万葉集 巻16  3816)

 

 

【意訳】

 

恋で身を持ち崩すのは、もうたくさんだと思ったから、家にあったデカい箱に閉じ込めて鏡までかけてあったのに。

 

恋の野郎、まんまと脱走して、またしても俺に取り憑いて来やがった。

 

 

穂積皇子は、異母兄である高市皇子の妻だった但馬皇女との不倫が露見して、左遷された過去があったらしい。

 

 

 

 

今日のテキスト(3)和歌

お友だちに、楽しくて元気があって夏っぽい和歌を探してほしいというリクエストをいただいたので、いろいろ眺めて、とりあえず四首選んでみた。

 

夏山の木末(こぬれ)の茂(しげ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴き響(とよ)むなる声の遥けさ

 

大伴家持 (万葉集 1494)

 

*遥けし…遠い。遥か遠くだ。

 

【意訳】

夏の山の梢のしげみから、姿の見えないヒバリの声が響き渡る。その声のなんと遥かであることか。

 

「鳴き響(とよ)む」という、言葉が気に入って、選んでみた。夏山の上に広がる天空を満たすかのように響きわたるヒバリの鳴き声。ちょっと天国っぽいと思う。

 

 

夏山のみねのこずゑしたかければ空にぞ蝉の声もきこゆる

 

よみ人しらず (和漢朗詠集

 

【意訳】

夏山の峰で、蝉が鳴いている。木々の梢があまりにも高みにあるために、まるで空の彼方から声が響いてくるかのようだ。

 

こちらは詠み人知らずだけれども、上の家持の歌と同様に、空を満たす音に浸る感動を歌っている。

 

 

やはらぐる光をふらし滝の糸のよるとも見えずやどる月影

 

藤原定家 (拾遺愚草)

 

【いんちき意訳】

滝の水がまるで糸を撚るかのように落ちていく。その水に月の光が宿り、穏やかな光を降りそそぐ。夜なのに、夜でないような、水と光のシンフォニー。

 

上の二首は音と空間を詠んでいたけど、定家のこの歌は、音と光を詠んでいる。聞いて元気が出る歌と言う感じではないけれども、美しさに心洗われて、夏バテで失った生命力を取り戻せるように思う。

 

ひざかりはあそびてゆかむ影もよし真野の萩原風立ちにけり

 

源俊頼 (散木奇歌集)

 

【意訳】

 

強い日差しの下は遊びながら行きましょう。日陰に宿るのもいいですね。真野に広がる萩の原に、涼やかな風が立ちますよ。

 

「萩原」と「風立つ」があるので、秋の歌なのだろう。前半の「日盛り」は残暑ということか。

 

「あそびて行かむ」には、本歌があるそうで、この歌は派生した歌ということらしい。そのうちちゃんと調べよう。

 

↓参考にした本

鳥居正博「古今短歌歳時記」(教育社)

何年も前に定価15000円で買ったけど、Amazonを見たら中古が2899円で売っていた。

 

この本、季節に関する言葉などの解説は充実しているけれど、個々の和歌の現代語訳や解釈がないので、使いにくいと思われて、安値になっちゃったのかな。

 

岩波文庫版「万葉集」。

こちらは全訳と親切な補注がたっぷりあるので、歴史音痴で古文が苦手な私には大変ありがたい。

 

 

栗と爆乳(万葉集1745)

 

 

病院の待合室で「万葉集の食文化」という本を読んでいて、栗を詠んだ歌が目に止まった。

 

【目次】

 

 

f:id:puyomari1029:20220511100901j:image

 

「三栗の那賀に向かへる」の歌(万葉集1745)

 

三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが

 

万葉集 巻九 1745

 

出先で詳しい調べ物ができない。 

 

ネット検も検索してみたら、高橋虫麻呂の歌であるとのこと。地方を詠んだ歌が多いという。

 

「三栗(みつぐり)」は、いがの中に栗が三つ入っていることから、こういう風に言うらしい。

 

「那賀(なか)」は地名で、埼玉県説と茨城県説があるようだ。「中」とかけてあるのだろう。

 

「曝井」は、布を晒すための井戸だそうだ。

 

「もが」は願望を表す終助詞なので、「そこに妻もが」は、「そこに妻がいればなあ!」と言う意味になる。

 

つまり、作者の通おうとしている場所には、妻はいない。

 

それなのに「三栗」の「中」に向かう「曝井」のように絶えず通おう、というのは、どういうことなのか。

 

布の産地に通わなくてはならないような仕事でも、命じられたのだろうか。

 

あ、この高橋虫麻呂さんは、巨乳の女性を讃える長歌を詠んでいるようだ。(万葉集 巻九 1738)

 

 

いつもの妄想意訳コント

 

「高橋、お前また出張だって?」

「うん。今度は茨城」

「こないだ埼玉行ったばっかりじゃん。大変だな」

「そうでもないよ。旅行好きだし、うふふふふ」

「なんだ、気持ちわるい笑い方だな」

「東国はいいよー」

「田舎だろ? 何がいいんだよ」

「布」

「布って、お前が仕事で扱うやつ?」

「布を水に曝すだろ? すると水が滴るだろ? キラキラするだろ。あと、濡れるとちょっと、中が透けて見えたりとか、するだろ」

「怪しい話になってきたな」

「確認は大事だよ。あの地域の子たちは、だいたい大きめなんだよね」

「そういえば巨乳好きだったなお前。現地妻でも作ったのか」

「作ってない」

「なんだ、違うのか」

「ガートが硬いんだよね。栗のイガイガレベル。三人のうち一人ぐらいはって思うんだけど、なかなかね」

「まとめて三人狙ってるのか。ろくでもないな」

「いい仕事するためにも、モチベーションは大事でしょ。うふふ」

「何だかな……まあ、頑張れ、栗拾い」

「うん! さあ通うぞー! 愛しき爆乳たちの元へ!」

「いっぺん爆発しとけ」

 

 

万葉集にみる食の文化--五穀・菜・塩」

 

 

万葉集・カラスのまぶたはなぜ腫れたのか

前回に続き、高宮王の怪しい歌について。

 

【目次】

 

高宮王の怪しい歌

 

波羅門の作れる水田(をだ)を食む烏(からす)瞼(まなぶた)腫れて幡桙(はたほこ)に居り  (3856)

 

万葉集 巻第十六

 

つまらない現代語訳

波羅門が作った田を食うカラスは、瞼を腫らして幡桙に止まっている。

 

語釈


「幡桙(はたほこ)」は、のぼりのような旗をつけた、ほこのこと。朝廷の会議や法会(ほうえ・仏法を解いたり亡くなった人を供養するための集会のときに立てたという。


それからカラス。田んぼを食い荒らすカラスなんているのかと思ったけれど、農林水産省の「野生鳥類被害防止マニュアル」を見ると、市街地でゴミ袋を荒らすだけでなく、スズメなどと同じように、田を荒らすことがあるらしい。

 

婆羅門

 

和歌にいきなり「波羅門(ばらもん)」が登場して驚くが、小学館の日本古典文学全集(新編)の頭注によれば、この歌は、「ムツキアラヒ」という、お下品な内容の伎楽(ぎがく)に基づいて詠まれたものだという。

 

伎楽は、推古天皇のころに百済から伝えられた仮面劇のこと。飛鳥時代から奈良時代にかけて、寺院で盛んに上演されたという。

 

「波羅門(バラモン)」はインドの最上階級のことだが、伎楽では、妖しい動作でムツキ(ふんどし)を洗う芝居を演じるらしい。

 

ふんどしを洗っているということは、つまりその波羅門は、下半身が解放状態ということになる。伎楽では、崑崙(くろん)という登場人物が、男性器を模した物体を振り回して貴婦人にいいよる、なんていう演目もあるそうだ。

 

なんだってそんなものを寺院で演じたのかは、私にはさっぱり分からない。

 

人寄せのためか。それとも、儀式の上で、神聖なものを汚してみせる必要でもあったのか。
 

とにかくここまでの知識をもとに解釈すると、この歌は、

 

「下半身を大解放した姿でふんどしを洗っているバラモンの作っている田んぼを食い荒らすカラスは、まぶたを腫らし、幡桙に止まっている」


ということを言っていることになる。


全くわけがわからない。

 

一方、岩波文庫版「万葉集」(四)の解説には、こんなことが書いてある。

 

「婆羅門」は古代インドの四姓の最高位。仏法に帰依し、耕した田を僧侶に布施する檀那であった。ただし、ここは天平八年(736)に渡来したその階級出身の僧、菩提僊那(ぼだいせんな)を指すか。大安寺に住して荘田を与えられた彼は、婆羅門僧正とも呼ばれた。

 

「小田」は田の歌語。烏のまぶたは腫れたように見えることがある。烏は実際は稲穂を荒らす鳥ではないが、そのまぶたの腫れを、檀那の田を食ったことへの仏罰だとみなして戯れた。

 

万葉集」(四) 岩波文庫

 

フンドシを洗っている婆羅門は一体どこへ行ったのか。

 

ますます訳が分からなくなったので、勝手に想像させていただく。

 

 

意訳とは名ばかりの何か


俺さ、こないだ、伎楽ってのを見たのよ。
お前、見たことある?
おもしろいよな、あれ。
けっこう卑猥だし、笑えるし、
コンチネンタル系のパフォーマンスだけど
俺の好みに合ってるっつーか。

 

でな、ちょうどバラモンがふんどし洗うんで
フ●チンになったとこで、
カラスが飛んできたのよ。
それがおかしなカラスでさあ。
旗ざおに止まって、じーっと、
バラモンのナニのあたりを、凝視してるわけよ。
そしたらさ、そのカラス、
だんだん目が腫れてきてやんの。
びっくりしたぜ。
目が腫れてくるカラスなんて、
見たことねーもん。


あれってやっぱ、あれかな、
バラモンの天罰が下ったとか、仏罰とか、そーゆーのかな。
まあカラスにしてみりゃ、
つマラんもんを見せやがってって、
言いたいところだろうけど・・・

って、おい。
鼻つまむなよな、お前まで。

 

 

↓今回の歌の一つ前の高宮王の歌

dakkimaru.hatenablog.com

 

腐女子の万葉集シリーズ