Kindle版を購入したものの、気持ちがそわそわと落ち着かず、なかなか手がつけられずにいるので、とにかく読みながら読書メモをとることにした。
読む前に、まず「モンキーマインド解消法」。
頭の中に無限に湧いてそわそわしている猿をまとめて上り電車に乗せて、東京方面に送り出す。
静かになった。(´・ω・`)
和歌は社会的な詩である。
思いを表現するのは確かだが、そこには集団的な思いが刻印されている。
集団的な思いは必ず方向性を持つ。でないと形にならない。
その方向性を、ひとまず理想と捉えておく。
つまり、和歌は理想を表現するものなのである。
わりと、すとんと納得できる。
万葉集や古今和歌集を読んでいて感じるのは、詠まれている光景や感情が、その歌を詠んだ歌人だけのものではなく、多くの人々に共有されるものだということだ。
それは和歌に限ったことではなくて、カラオケなどで愛唱される歌謡曲も同じではないかと思う。
ここで注意しておきたいのは、和歌が、現在の自分の----つまり作者の----感覚や心情を表現するものであることは間違いない、ということである。
その意味では、和歌は詩であり、その中でも抒情詩に分類されるべきものである。
だとすれば、和歌とは、現在の自分からの、理想的な事柄への思いを表現するものだ、ということになるだろう。
理想への思いとは、多くの場合願いであり、願いがさらに強まれば、祈りとなる。
和歌は祈りである、という。
全ての和歌が祈りのように純化されているわけではないと思うけれども、祈りとして受け止められる和歌はたくさんあると、私も思う。
もっとも祈りといった場合には、ただ強い願望というだけにとどまらなくなる。
そこには、向こう側から到来するものを、敬虔に受け入れる心性が含まれる。
自分の意志を越えて起こる出来事を、従容と受け止める心根を伴う。(中略)
和歌とは祈りを表現するものだ、とみなすところから始めたい。すると和歌の見方、味わい方も変わってこないだろうか。
相聞歌などは、どうなのだろう。
特定の相手への思いを詠んだ歌の中には、「向こう側から到来するものを敬虔に受け止める」どころか、受け入れられない恨みつらみのこもったものも少なくないけど、あれらも「祈り」なのだろうか。
そうか、呪詛も祈りの一種と思えばいいのか。
_φ(・_・