NHK大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」を見た。
清須での厚遇
今川から離反して清須に向かった松平元康(松本潤)を待っていたのは、織田信長(岡田准一による、不可解なオモテナシだった。
幼少期に面識があったとはいえ、直前まで戦争していた相手と、いきなり手加減なしの相撲をとって熱く盛り上がったかと思えば、問答無用で自分の妹(お市)との結婚を命じたり。
同盟関係を結ぶにあたって、尾張と三河の国境をはっきり決めようと提案する元康を、信長は適当にあしらうことも、損得感情を見せることもなく、望むままに決めさせてもいた。
立場が弱いはずの元康たちに対して、信長や清須の人々は、侮るようなそぶりを見せることもない。
戦略的に重要な同盟関係を結ぶ相手だからという理由かもしれないけれども、信長の元康への態度や扱いは、必要以上に誠実といっていいもののように思えた。
信長に激しく怯え、清須に行ったら殺されるとまで言っていた元康は、想像と現実とのギャップに戸惑っていた。
今川義元と元康の関係
思えば元康が慕っていた今川義元は、人質の元康に対して慈愛深い養父のような顔を見せてはいたものの、本来なら元康が継ぐべき岡崎城に自分の配下を城代に置き、三河に重税を課していたらしい。
義元は、自分の身内の瀬名と元康との結婚を快く認めていはたけれども、だからといって、松平家が今川と対等の地位を回復することを許すつもりはなく、あくまでも配下として忠義を尽くすことを望んでいただけなのだろう。
そんな風に思うと、桶狭間の戦いのときに元康に贈られた金陀美具足も、義元にしてみれば、松平勢を死地に送って使い潰すためのコスパのいい代償だったのかもしれない。
「戦国時代各国総覧」というホームページによると、戦国時代の三河の国の石高は、29万石だったらしい。
信長の尾張は57万石。
この数字をあてにするなら、今川は三河を確実に押さえておかなければ、尾張の織田信長と張り合えないことになる。
元康の忠義心を確保して、松平を配下に据えておけるのなら、瀬名や金陀美具足など、くれてやって惜しいものではなかったのだろう。
信長の竹千代愛…みたいな何か
そんな風に考えると、元康目線でみた信長の好感度を、義元よりもどんどん高く設定したくなってくる。
でも、このドラマの信長が元康に向ける感情は、そんなに良いことずくめとは到底思えない。
むしろ、なんかとてもヤバいものが混ざっていそうな気配すらある。
嗜虐と紙一重の保護欲とか…
自分と対等な強者に育っていくことを願いながらも、支配したい欲求を抑えられないっぽいところとか……
繰り返される回想シーンでの、竹千代に対する執着心を見ていても、途方もないヤンデレ兄貴な裏の顔を隠していそうに思えてならない。
元康(の貞操)危うし!
とか言いたくなる。
けれども、この先の歴史を大雑把に考えれば、むしろ信長のほうが、のちの徳川家康の子々孫々の繁栄の踏み台みたいなポジションだったとも言えるわけで、なんとも複雑な気持ちになる。
信長の手腕によって繁栄した清須の町のありさまを目の当たりにし、桶狭間で義元を討ち取ったときの神がかった軍略を知ることは、徳川家康という偉大な為政者を育てる糧になっていったのかもしれない。
竹千代限定のヤンデレ兄貴にして、なぜか強大な父性をも発揮してしまう、ヤバい隣人。
このドラマの信長は、そんなキャラにも見える。
(_ _).。o○
このドラマのお市の方は、幼少期からずっと竹千代に思いを寄せていたらしく、兄が決めた元康との政略結婚を心から喜んでいた。
けれども、愛妻の瀬名を思って激しく葛藤する元康の姿を見たお市は、自分から元康を振って身を引く。
その上で、兄の信長に、元康は信頼できる数少ない存在になり得るのだから、大切にするようにと伝える。
お市は、暴君のような兄の抱える孤独や、傍目には分かりにくい情愛の深さを察していたのだろうか。
もしかしたら、兄が竹千代に寄せるヤバい執着心(片思い?)にも、うっすら気づいていたのかも。
清須で同盟を結んだ元康に、お市の方の縁談があったという話が、事実であるのかどうかは分からないけど、もしもそれが本当だったとするなら、信長の死後、再婚相手の柴田勝家と共に秀吉に攻め滅ぼされて自害するお市の方の最期は、あまりにも悲劇的だ。
もしも元康が瀬名を切り捨てて、お市と結婚していたなら、お市の人生はまるで別物になっていただろうから。
だけど、お市の方の娘の江(ごう)が、徳川家康の息子秀忠に嫁いで(再々婚)、7人もの子どもを産んだことを考えると、お市の方と家康の縁は決して浅いものじゃなかったのは間違いない。
織田家の人々
それにしても、清須で元康たち三河勢を迎えた尾張の人々は、みんな例外なく変だった。
黒ずくめの衣装で一糸乱れぬ動きを見せて松平勢を絶句させる、信長の家臣たち。
自らを猿と呼ばせて道化のような振る舞いをしながらも、目つきに全く隙のない、のちの豊臣秀吉(ムロツヨシ)。
そのサルを気まぐれに蹴り飛ばす、髭が濃くて顔の怖い柴田勝家(吉原光夫)。
どこかアットホームな元康たちの主従関係とは違って、織田家の人々は、信長が絶対的な支配者でありながら、才能ある家臣の個性を殺すほどの服従を強いるのではなく、放し飼いにしているようにも見える。
彼らと比べると、最初のころは恐ろしく個性的だと思っていた松平の家臣団が、なんだか常識人の集まりに見えてくるから不思議だ。
蛇足コーナー
毎度蛇足の歴メシネタ…
織田信長は、味の濃い料理が好きだったという説がある。
「常山紀談」という本に、信長が薄味の料理にブチ切れたエピソードがあるというので、本棚から探し出して読んでみた。
坪内は鶴鯉の包丁は云ふにも及ばず、七五三の饗膳の儀式よくしれる者なり。
(中略)
則坪内をして膳を出させけるを、信長食して、水くさくてくはれざるよ。それ誅せよ、と怒られしかば、(以下略)
「常山紀談」上巻 坪内某料理の事より
「七五三の饗膳」というのは、本膳料理という、儀礼的で格式の高い料理のことで、お子様ランチ的なものではないらしい。室町時代には、将軍を自邸に招いたときなどに、本膳料理が振舞われていたという。
坪内某の素性は明らかではないけれど、三好家に5代に渡って仕えていたとのことだから、本膳料理のプロフェッショナルだったはずで、その味付けは都の高貴な人々の味覚に対応したものだったのだろう。
それを信長は、「水臭くて食えたもんじゃねえ!と一蹴。
坪内某、いったい何を作って出したのか。
信長の暮らす尾張国のお隣には、あの八丁味噌の原産地である三河国がある。
家康の大好物として知られる焼き味噌は、信長も好んでいたという。
坪内某の水臭い料理が八丁味噌仕立てではなかったのは、間違いない。
けれども首をはねられそうになった坪内某は、このあと願い出て料理をもう一度作り直し、今度は信長に大変気に入られたという。二番目の料理は、田舎臭い三流の味付けだったと坪内某自身が述懐し、その味を好んだ信長を遠回しにディスったのだとか。もしかしたら八丁味噌仕立てだったのかもしれない。
食べ物の地域性を差別的に評価の対象にするのは品のないことだと思うけれども、坪内某が長年仕えていた三好家が信長に滅ぼされた直後のエピソードなので、ディスりたくなる気持ちも、まあ分からなくはない。