「鎌倉殿の13人」の第21回「仏の眼差し」を視聴した。
義経が死に、平泉も滅びて、やっと鎌倉にひと時の平穏が訪れるターンかと思ったのに、序盤からきな臭さ満載の回だった。
北条時政(坂東彌十郎)と牧の方(宮沢りえ)の息子が誕生したのだけど、お祝いのために集まった北条の身内に向かって、牧の方がブチ切れて、一人一人に上から目線のダメ出しビームを連射する。
牧の方としては、比企家が頼朝の一族との姻戚関係をどんどん結んで力を増しているのが面白くないらしいのだけど、もともと坂東武者全般を軽く見下している牧の方の言葉には、誰も心を動かされず、困惑や反感が増すばかり。
少しばかり歴史をかじったおかげで、北条の身内のこういう空気が、のちの畠山重忠と時政の確執や、牧の方事件の伏線になっていくのだろうと察せられる。
それだけに、時政、もうちょっと奥さんを何とかできなかったのだろうかと思うのだけれども、史実の時政も、ドラマの中の時政も、若く美しい後妻の手綱を握るよりも、高飛車な暴走っぷりも含めて可愛がって流されるほうを選んでしまったのだろう。
悪人とまではいかないけれど、自己中ではた迷惑なお局様っぽい、残念な美熟女キャラを見事に演じている宮沢りえ氏、すごいと思う。あんな人、近くにいたら、とってもイヤだろうな。(´・ω・`)
そんな牧の方の暴走で、すっかりきな臭くなった祝いの場の空気を、頼朝と政子の長女である大姫(南沙良)が、完全にあさっての方向に粉砕していく。
祖父の時政に向かって、赤ん坊に命を吸い取られて元気がないと断言し、なんだかよくわからない真言を唱えて復唱を求めたり。
生霊に取り憑かれて死んだ光源氏の正妻の名をとって、勝手に「葵」と改名したり。
ナマの鰯の頭をその場でちぎって皆に配ろうとしたり。
屈託のない笑顔とともに精神的死臭をまき散らす大姫の痛ましさは、牧の方の暴走を完全に凌駕していた。娘の狂気になすすべもなく見守っている政子の心中が思いやられる。
一方、頼朝の嫡男万寿(頼家)に、義時の息子金剛(泰時)が初めてお目通りする場面では、万寿の乳母である比企能員の妻が、実母の政子を含む北条氏に対してマウントを取ろうとやかましく口出ししていたけれども、これはあっさり追い出されていた。
そういえば、義経の正妻の郷御前も比企の尼の孫娘だったはずで、Wikipediaによると、郷御前の父親は所領を没収されて死罪になったと書いてあるけど、比企氏はお咎めなしだったのだろうか。そのあたり、ドラマでは描かれていないけれども、比企氏としては、いろいろ焦る気持ちもあったのかなと想像する。
そういう将来につながるきな臭さに、ダメ押しのように黒い影を落とす事件が、とうとう起きてしまう。
義時の妻、八重さんの死。
私が滅多にドラマや映画を見ないのは、登場人物の痛ましい死でメンタルをごっそり削られるからだ(漫画や文字媒体だとそうでもない)。
だから、歴史物の映像作品を見るときには、いつ誰がどんな形で亡くなるのか、あらかじめ予習することにしている。
八重さんの死については、いろいろ調べて早い時期から覚悟はしていたから、以後の放映を見られなくなるほどのショックは受けなかったけれども、それでも辛かった。
ドラマの中で、どういう形で、義時が八重さん(新垣結衣)を失うのかは分からなかったけど、後世で頼家の母親が不明瞭になる程度には早い時期の退場になるのだろうし、その前に嫡男泰時に頼朝の落胤説なども出るのだろうとは思っていた。
落胤説は頼朝(大泉洋)が自分でわざとらしく撒いていた。
おかしいけど、義時の深い苦悩とセットなので、笑えない。
八重さんは、八田知家(市原隼人)に頼まれて引き取った鶴丸という孤児に、亡くなった息子の千鶴丸の面影を重ねたばかりに、川に流された鶴丸を救おうとして、溺死してしまう。
現場の河原は、千鶴丸が善児の手で殺められた河原によく似ている気がした。もしかしたら、同じ河原だったのだろうか。(古い放映を見返したいけど、nasneの容量不足でデータを消してしまったので、もう見られない…)
ほんとうに伏線の多いドラマだと思う。
そして、子を失う母の予備軍は、まだまだいる。政子、牧の方も……
今後の展開が、いまからしんどい。(´・ω・`)
( _ _ ).。o○
毎度蛇足の歴メシコーナー。
今回は久しぶりに食事のシーンがあった。
奥州征伐の祝勝会だろうか、坂東武者たちが酒盛りをしていた。場所は、義経の屋敷のあった衣川の近くらしい。
酒の肴は、長い串に刺さって大皿に盛られているものと、椀に入った黒っぽい粒状のもの。栗だろうか。ほかに焼き魚っぽいものが積まれた大皿もあった。
義時は、握り飯っぽい白いものを手づかみで食べていた。ただ、握り飯にしては、ちょっと長い感じがした。
その握り飯っぽい白いものと、長い串に刺さっているものは、どうも同じもののように見える。
串に刺したご飯で思いつくのは、秋田名物きりたんぽだ。
私は青森生まれだけど、きりたんぽ鍋は、子どものころからの大好物だ。
きりたんぽは、秋田県大館・鹿角地域の郷土料理、あるいはマタギの料理が由来とされているようだ(Wikipediaによる)。
平泉と大舘・鹿角は、ちょっと距離があるけれども、マタギは東北全域に分布していたらしいので、きりたんぽ風の串焼きご飯がマタギ料理由来だとするなら、平泉にきりたんぽ風の料理があっても不思議ではない……かもしれない。
義時は屈託を抱えてまずそうに食べていたけれど、私にはとてもおいしそうに見えた。
阿弥陀如来の前での運慶との酒盛りシーンでは、折敷の上に器が三つあったけれど、中身は分からなかった。
義時が箸で白っぽい(?)小さなのものを食べていたけれども、ご飯のようではなかった。
ひょっとして、大豆だろうか。
鎌倉時代あたりから、僧侶は大豆を好んで食し、精進料理にもよく使われるようになったという。
「宇治拾遺物語」に、こんな話が掲載されている。
叡山の戒檀を人夫かなはざりければ、え築かざりける比、浅井の郡司は親しき上に、師檀にて仏事を修する間、この僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて酢をかけけるを、
「何しに酢をばかくるぞ」
と問はれければ、郡司曰く、
「暖かなる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、にがみてよく挟まるるなり。然らざれば、すべりて挟まれぬなり」
といふ。
僧正の曰く、
「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、挟み食ひてん」
とありければ、
「いかでさる事あるべき」
とあらがひけり。僧正、
「勝ち申しなば、異事あるべからず。戒檀を築きて給へ」
とありければ、
「やすき事」
とて、炒大豆を投げやるに、一間ばかり退きて居給ひて、一度も落とさず挟まれけり。見る者あさまずといふ事なし。柚の実の只今しぼり出だしたるをまぜて、投げてやりたるをぞ、挟みすべらかし給ひたりけれど、落としもたてず、またやがて挟みとどめ給ひける。郡司一家広き者なれば、人数をおこして、不日に戒檀を築きてけりとぞ。
※叡山……比叡山
※戒檀……戒を授けるための高い檀場。
※師檀……師匠と檀家の間柄。
※すむつかり……大根おろしや酢などを大豆にまぜて煮たもの。「酢で(大豆が)むつかる(怒る)」の意だいう説もあるとか。※にがむ……しかめっ面になる。
※一間……約1.8メートル。
※あさむ……驚きあきれる。
(新編じゃない方の小学館日本文学全集の「宇治拾遺物語」を参照した)
【てきとーなねこたま意訳】
これも今は昔のこと、慈恵僧正(延暦寺の良源・912年-985年)は近江国浅井郡の人である。
比叡山の戒檀が、人夫が集まらなくて作れなかった時分、僧正と親しい浅井の郡司が、法要を営むときにこの僧正をお招きして、食事のために、目の前で大豆を炒って酢をかけた。それを見た慈恵僧正が、
「なんで酢なんかかけるのよ」
とお尋ねになったので、郡司が、
「炒ってあったかいうちに、酢をかけるとですね、『すむつかり』っていって、豆が怒って顔をしかめるっていうか、要するにシワシワになってですね、箸でつまみやすくなるんですよ。じゃないとすべってつまめないんです」という。それを聞いた慈恵僧正は、
「べつにー、シワシワじゃなくても、つまめないわけないじゃん。遠くからシュートされたって、俺だったら箸でキャッチして食えるよ」
というので、郡司は、
「んなこと出来るわけないでしょ」
と反論した。
「んじゃ、勝負だな。もし俺が勝ったら、あんたとこで戒檀を作ってくれたまえよ」
「いいですとも」というわけで、郡司が1.8メートルほどの距離から炒り大豆を放ったところ、慈恵僧正は一度も落とさずに箸でキャッチしてしまったので、見ていた者は例外なく驚嘆した。
絞ったばっかりの柚子の実をまぜて放ったときには、さすがに箸からすべらせたけれども、下に落とすことなくキャッチしてしまった。
郡司の一族は栄えていて豊かだったので、人手を集めてあっという間に戒檀をこしらえてしまったという。
慈恵僧正は第18代天台座主で、比叡山中興の祖とも言われている人だというけれど、なんの修行してたんだか。
義時が箸でつまんでいたのも、もしかしたら「酢むつかり」の大豆だったかもしれない。なんだかすっぱそうな顔だったし。