おはようございます。
ふにゃもらけの画像が品切れ中なので、昔作った変な画像を貼り付けておく。
上の写真は、散策中の長女さんが撮影したもの。
何の花なんだろうか。
電柱と縁石の隙間に生えているけど、雑草というには存在感がありすぎる。
(_ _).。o○
三ヶ月の入院を経て、現在自宅療養中の長女さんは、じわじわと気力体力を取り戻してきている。
減ってしまっていた体重も戻った。ちょっと戻りすぎたといって、いまはウォーキング等をして絞り込んでいる。
脳の調子は、だいぶ快調とのこと。
「ずっと前からテレビや本を見ても、視界が泥のようて、ただ脳が苦しいだけだったのに、いまはゲームが楽しいと感じる」
長女さんのいう「ずっと前」というのは、おそらく小学校のころだと思う。
小4くらいまでの長女さんは、漫画やゲームが大好きで、おでかけや外食に大喜びする子どもだった。
それが急に変わってしまったのは、小5の春頃だった。
それまで、誕生日プレゼントにノートパソコンが欲しいと熱烈におねだりしていたのに、11歳の誕生日が近づいてきたら、「いらない」という。
だったら画材や文房具はどうかと思って、家族で東急ハンズなど見て回ったら、一緒に連れていった末っ子が大はしゃぎしてあれもこれも欲しがるのに、長女さんは無反応。
その後、次第に学校に行けなくなり、外出や入浴も極度に拒むようになり、やがて食事も摂れなくなってやせ細ってしまったため、年明けには入院になった。腎臓病以外での入院は、それが初めてのことだった。
原因が何なのか、ほんとうに分からなかった。
不登校のまま小学校を卒業し、中学に進学したものの、教室での授業には参加できないため、「相談室登校」という形を取るしかなかった。
子ども不登校の原因は「母親」のせいだと考えるのが、学校現場の常識らしくて、長女さんと同行して中学に行く私への風当たりは大変に強く、冷たいものだった。
長女さんが外出できず、私が一人で「相談室」に行き、配布物等を引き取ることも多かったけど、毎度ほぼ針の筵(むしろ)に座りにいくようなものだったから、嫌で嫌でしかたがなかった。
当時、そこの中学校では全学で40人ほどの不登校者が在籍していたそうで、それを一人でも減らそうというのが学校側の方針だったらしい。害になっている母親を締め上げれば子どもが登校すると、安易に考える(上の方の立場の)人も少なくなかったのかもしれない。
「相談員」のなかには、だいぶ底意地のよくない人もいて、訪問時間を予約して出かけても、その時間だけ相談室の鍵を閉めて居留守を使う、などということをされたりもした。その人には、
なんてことを言われた。小児精神科を受診させていることを伝えても、
「そうやって、わざわざ子どもを病人にしなくてもいいのに」
などということも言われて、驚いたこともある。
かと思うと、
「特別支援学級に、お客さんとして入ってみては?」
と言われたりもしたので、それが可能なら是非お願いしたいと申し出ると、今度は支援学級の担任の先生方の拒否に合ったようで、ほとんど面識のないナントカ主任という人から家に電話がかかってきて、いかにも私が強引に支援型級に子どもをねじ込もうとしたかのように、一方的に叱られた。
で、相談員にそのことを話すと、なぜか私が支援学級に対する差別意識を持っていて、我が子の参加に否定的だったという話に捻じ曲がってしまっていて、愕然とした。
息子が重度の障害児で長年支援学級にお世話になっていたのだから、差別意識などありえないし、長女さんも小学校時代は支援学級の授業によく飛び入り参加していたなどと、いくら丁寧に相談員に説明してみても、完全に馬耳東風だった。
いま思えば、とにかく私(母親)を悪者にしておくことで、学校側の誰もが責任を取らずに問題を「なかったこと」にしよう、ということだったのだろうけれども、仮にも教育に携わる方々が、よくまあそこまで頭の悪いことができるものだと、つくづく呆れるばかりだった。
もう二度と出会うことのない人々だし、顔も名前もほとんど忘れてしまったけど、私のうつ病発症の一端を担っているあの方々については、老若男女の区別なく頭頂からまだらにハゲればいいなと密かに思うくらいは許してもらいたい。
ほんの十数年前の日本の教育現場での、子どもの難病や精神疾患、早期に療育手帳を取得しないタイプの発達障害への理解は、その程度のものだった。いまは少しはマシになったのだろうか。
中学校がそんなありさまであることを、長女さんの精神科の主治医に報告すると、
「中学校は、もう捨てちゃっていいですよ」
と言われたものだ。医療側も、学校にはいろいろと思うところがあったのだろう。
この辺りの話は書き始めるとキリがないので、このへんにしておく。
そんなふうに周囲がごたごたしている間も、長女さんはずっと苦しんでいた。
本も読めず、ゲームも普通に楽しめず、勉強は凄まじい苦行でしかなく、食事もつらいことが多く、そんな内面の苦しさをうまく言葉にして周囲にうまく伝える方策も持たなかったために、どんどん状況が悪くなっていったのだと思う。
自分の気持ちを声に出してまっすぐに伝えるということは、定型発達であるなら1歳児にだってできるけれども、長女さんには本当に難しいことだったようだ。
自分の気持ちを声に出していうためには、その自分が解離せずに自分のなかにしっかり据えられている必要があるのだと思う。長い間、解離性障害にも苦しんでいた長女さんは、いまはもう解離を感じないという。それと連動したのかどうか、以前はよく訴えていた全身の疼痛もなくなったそうだ。
いまのよい状態が長く続いてほしいのはもちろんだけれども。できるならもっと改善して、安定して、これまでの人生で出来なかったことを、どっさり取り戻してくれればと願わずにはいられない。