映像文化は苦手なのに、本をあまり読めない時には、不思議と映画やドラマを見ることができる。
作品を選んで見始めるまでのハードルの高さは普段とあまり変わらないけど、身始めてから、作品に没入するまでの時間が、いつもより短くなるのだ。
それでも、一息に全編を視聴するのは難しくて、何度か中休みを入れながら、ようやく見終わるのだけれども。
昨日は、映画「僕と世界の方程式」をAmazonプライム・ビデオで鑑賞。二、三回、休憩は入れたものの、その日のうちに見終わった。自分としては快挙である。
幼児期に数学の才能を開花させると共に、自閉症と診断された、ネイサンという少年が主人公。
ネイサンの父親は、愛情深く、息子の気持ちを汲んで喜ばせることのうまい人だったけど、息子とのドライブ中、
「こっちを見て。何も心配ないから」
みたいなことを言った次の瞬間、他の車に激突されて即死する。
死亡フラグをこれほど素早く回収した映画を、いまだかつて見たことがない。 (´・ω・`)
助手席にいたネイサンは、血まみれの父親の頭を無表情に眺め、その光景を克明に記憶したけれども、父親の死を感情で受容することはできなかった。
どんな子どもにとっても、親の死をこのような形で目の当たりにするのは、極めて不幸なことだけれども、ネイサンにとっては、不幸以上の意味を持つものとなる。
父親の死の記憶は、とある時点まではネイサンの人生を特殊なこだわりに縛り付ける呪いだったけれども、やがては他者との感情的なつながりを理解するための、重要な鍵ともなるからである。
父親の死と同時に、ネイサンの情緒的な発達は実質的に止まってしまう。にもかかわらず、ずば抜けた数学の才能が、良くも悪くも周囲の目を引くため、内面の歪さがしっかりとケアされないまま、社会のなかでは数学の能力だけ存在意義であるかのように扱われ、自分でもそう感じながら成長してしまう。
この映画は、そういう才能偏重教育への批判を、じんわりと訴えてもいたと思う。
成長したネイサンは、高校生の数学オリンピックのイギリス代表候補に選ばれて、台湾での合同合宿に参加することになる。それは極めて栄誉ある立場であって、本人もそうなることを強く望んでいたものだった。
けれども、数学だけが自分の価値だという思いが強いためか、負けることを極度に恐れるようにもなり、そのストレスから、亡き父親との楽しい思い出や、事故死の場面が、頻繁にフラッシュバックするようになる。
台湾でのネイサンは、チームメイトにもコーチにも親しめず、慣れない環境に不安を感じて、自己主張ができなくなり、数学の力もうまく発揮できなかった。
チームには、自分の他にも自閉症の青年がいて、その子が仲間の調和を容赦なく叩き割って顰蹙を買いまくるので、同じように嫌われるのを恐れるネイサンは、ますます何も言えなくなってしまう。
ただ、父親と行った中華料理店の記憶があるためか、合宿中のパートナーに割り当てられた中国チームの少女と親しくなり、短期間で独学した中国語会話を頼りに、台湾の街を一人で出歩くこともあった。父親の存在と結びついている中国の文化は、ネイサンの無意識のなかで、特別な意味を持つものになっていたのだ。
また、同じイギリスチームに、いつもひとりぼっちでいる女の子がいて、その子が余暇に演奏するキーボードに引かれて、時折会話するようにもなる。音楽は数学と似ているという、その女の子の言葉が、ネイサンの心にも響いたようだった。キーボードに触ったこともなかったネイサンは、その場で耳コピした曲を、すぐに演奏して見せて、女の子を驚かせた。それは、数学の才能ゆえに孤独だった彼女に、思慕の念を抱かせるのに十分な触れ合いだったのだけど、他人にも自分にも感情があることを理解していないネイサンには、彼女の気持ちが分かるはずもなかった。
中国人チームの女の子のほうも、ネイサンとの間に、特別な絆を作りつつあった。彼女はネイサンが自閉症であることを察しているらしく、ネイサンが混乱しないように配慮しつつ、余暇の楽しみを分かち合った。そのひとときは、父親が生きてきたころにネイサンが味わっていた楽しさに通じるものがあったのかもしれない。それまで、身体に触れられることを恐怖し、母親と手を繋ぐこともできなかったネイサンが、中国人チームの女の子とだけは、自然と触れ合えるようになっていく。
台湾合宿で、ネイサンと、中国人チームの女の子、イギリス人チームの女の子の三人は、それぞれ自国の選手として出場することが決まる。選抜試験でのネイサンの成績は、ギリギリだったけれども、他の候補者にはない、独特の美しさを持つ数学的センスを買われての選抜だったようだった。
けれども、イギリスで行われるオリンピックの本番直前に、ネイサンの感情を大きく揺さぶる出来事が起きる。
中国チームの少女が、ネイサンの個室を訪れ、ベッドで寄り添って一夜を過ごしていたのを、中国チームの責任者である少女の叔父が見とがめたのだ。叔父は、ネイサンの目前で、自分の姪を散々に侮辱し、大声で罵り倒した。
もともと少女は、一族の名誉のためだけに、少女の人生と才能を利用しようとする叔父に強く反発していたため、その場で数学オリンピック辞退を決意し、会場を去ってしまう。暴風のような感情的ドラマを受け止めかねて混乱するネイサンに向かって、中国人の少女は、ネイサンが嫌いだから去るのではないと、はっきりと伝える。
オリンピックの会場入りの前に、イギリスチームの少女がネイサンのところに来て、二人のことを自分が密告したのだと告白し、心からの謝罪をする。それは嫉妬からの行為だったのだろうけれども、彼女には、試合直前のネイサンを傷つけるつもりはなかったのだろう。イギリス人の少女の複雑な心の内は、ネイサンには到底理解できないものだったようだけれども、そこに自分が理解し得ない感情の世界があることだけは、痛みのように感じていたのかもしれない。
オリンピックの試験が始まり、選手が一斉に問題に取り組み始めるけれども、周囲の物音や視覚刺激によって、ネイサンの集中力は執拗に妨害され、同時に内面でも、得体のしれない感情の混乱によって引き起こされる、記憶のフラッシュバックの波状攻撃に攻め立てられて、もはや問題を解くどころではなくなってしまう。
パニックに近い状態となったネイサンは、問題を一問も解かないまま、オリンピック会場から脱走した。彼には、目の前の数学の問題などとは比べものにならない、人生の難問を早急に解く必要があったのだ。
中国人の少女は、自分にとってどういう存在であるのか。
彼女は自分をどう思い、自分は彼女をどう思うのか。
他人とは、自分にとってなんであるのか。
自分の価値とは、なんなのか。
父親は、なぜいま自分のそばに存在していないのか。
数学オリンピック会場から脱走したネイサンは、父親との思い出につながる中華料理の店に飛び込む。
会場からネイサンを追いかけてきた母親……彼女はネイサンの自閉症的な性質よく理解して支えてきたと同時に、我が子と心が通じ合わないことに深く傷つき続けていた……によって、ネイサンは、全ての問いの答えを得ることになる。
ネイサンの価値は数学の才能だけではないこと。
両親がネイサンを愛し、大切に思うのは、ネイサンが数学の天才だからではなく、ネイサン自身が、かけがえのない大切な存在だからだということ(言い回しはこれとは違っていたと思う)。
ネイサンが、誰かに去られたり、同じ思いを返してもらえずに苦しむことがあるとするなら、それは、両親がネイサンを思うのと同じような気持ちが、ネイサンの中にあるからだということ。
そのときネイサンは、父親の死を受容し、悲しみと慕わしさのために、おそらくは生まれて初めて激しく泣いた。
数学オリンピックをボイコットしたネイサンは、誰かを愛するという、人生の重要な方程式の解を、手に入れることができたのだった。
ネイサン視点で長々とあらすじを書いたけれども、この映画には、ネイサンの母親と、数学の先生の物語も含まれている。
彼らはネイサンの物語では、見守る立場という脇役ではあるけれども、ネイサンの存在と成長によって、彼ら自身の人生も、みずみずしい蘇りを迎えることになる。
とくに、数学者として挫折して、多発性硬化症という難病にもかかってしまって、半ば人生を投げて、アルコール中毒と薬物依存とギャンブル依存になりかかって廃人寸前だった先生にとって、ネイサン親子との出会いは、生きる勇気を取り戻すための、最高の治療となった。
という感じで、実に綺麗に方程式が解けた感の強い作品だったけれども、それだけに、ちょっと出来過ぎな印象が無くもない。
ラストで、ネイサンが情緒的に一気に成長し、まるで脱皮したかのように、自然な感情表出や愛情表現を見せるようになるのだけども、自閉症の青年が、そんなに簡単に、一日でいきなり表情豊かになるものかどうか、ちょっと疑問に思う部分もあった。
でも、脳の問題、こと発達障害に関しては、稀にではあっても、思いもかけないような奇跡が起きることもあるのを、私自身が体験的に知っているので、映画の演出を否定してかかる気持ちは全くない。
概ねよい映画だったとも思う。
ただ、ネイサンと同じイギリスチーム所属の自閉症の青年のその後は、かなり気になる。人に嫌われる言動を繰り返して仲間からハブられた上、選抜にも落ちた彼は、ペンで腕を傷つけて血まみれにするという自傷行為をネイサンに見られたとき、自分の価値は数学の才能しかなく、それすら失った今、無価値な存在だと断言して去っていく。あのままだと、彼の人生は相当に危ういものになるはずだけど、おそらく周囲は数学以外のフォローを用意していないだろう。
それと、ネイサンの脳内で執拗に繰り返される、フラッシュバック時の描写は、似たようなものを抱えた経験のある人には、もしかすると、ちとキツイかもしれない。あるいは、質・量共にそんな程度のものではないというクレームもあり得るかもしれない。
もっとも、リアルタイムの出来事に、膨大な過去の記憶が紐付けされて無制限に蘇る苦しさは、映像で説明するのは多分困難だろう。
中途半端だけど、長くなったしキリがないので、ここまでにする。