おはようございます。
長女さんが、「めまいから覚醒したおっかあ」の絵を描いてくれた。
世界広しといえども、こんな母の肖像は、あまりないんじゃないかと思う。
さっそく、魔改造。
めまいと嘔吐から解放された爽やかな気分を青色に変換して乗せてみた。
めまいは、まだ少し残っている。
吐き気のほうは、ほぼ治った。
日中、エアコンをかけていても、居間の気温が28度を超える。濡れタオルなどで首や脇の下などをせっせと冷やし、お茶やイオンバランス飲料で水分補給に努めている。
北国の生まれとはいえ、ここまで暑さが苦手ではなかったはずだ。自律神経系がうまく働いていないのだろう。そのあたりは、鬱やパニック障害の影響もあるように思う。
ストレスといびつな報酬系
内科の主治医も精神科の主治医も、最近の私の体調不良の原因は、
「暑さとストレス(とコロナ)」
だと、口を揃えていうけれど、私にその自覚は薄い。
暑さ(とコロナ)は、まあ分かるけど、ほかにストレスを感じるような要因など、あるんだろうかと思うほど、私の生活には制約が薄い。
そりゃ、「まったく、微塵も、これっぽっちも決まった予定もない日々が丸3ヶ月ほしい」なんてことを思ったりはするけど、コロナのお陰で学校行事等がすべて中止になった今年は、ほぼそれに近い状況である。
でも、めまいのせいで何もできずに寝ていると、なにかをしなければならないという、強烈な焦燥感が、常時アラームを鳴らし続けているのを感じる。
やりたいことや、思いついてやりかけたのに手付かずになっていることが、数十年分溜め込んだ洗濯物のように脳内に積み上がっている。
それを全部片付けることができたら、アラームは止まるんだろうか。
たぶん、止まらない。
幼いころから、「これを達成すれば、いいことがある」式の報酬系の脳神経回路を特化することで、いろんな困難を乗り切ろうとしてきた。ADHDの子どもたちの療育で取り入れられる行動療法的なやり方を、ADHDの子どもが自力で思いついて、ずっとやってきたわけである。
一歩間違えれば病的依存症に陥りかねない自分の性質については、かなり早い時期に気づいていたから、自壊するような行動に固執しないように慎重に避けていたつもりだったけど、いかに「健全な行動」を報酬獲得の条件としても、そもそも報酬系回路を意図的に利用し続けること自体が危険なのだと、いまなら断言できる。
成人後の私の脳には、勉強すること、読書すること、ものを書くこと、つまりなにかを「きちんと」やり遂げることなどを、自分のなかで達成条件として設定するだけで、ある程度のドーパミンが分泌されるという、極めてコスパのいい報酬系回路が出来上がってしまったのだと思う。
達成しなくても、計画しただけで多少の報酬があるのだから、計画詐欺だけで脳を回していけそうなものだけれども、残念ながらそんなバブリーなうまい話があるはずもなく、限界まで積み上がった計画は、「虚しさ」という巨大な負債として脳を侵食し始め、やがて得体のしれない焦燥感をトリガーとする意味不明のアラームをひっきりなしに鳴らすプラグインを、勝手に作り出して設置してしまったのだろう。
そんなもの、とっととデリートすればいいのだろうけど、自分の脳の設定画面を簡単に開けるものなら、鬱だのパニック障害だので苦しむ人は激減するだろう。
でもまあ、解決方法はなんとなくわかるのである。
・「できる」ことだけを計画する
・「できた」ときだけ、達成感という報酬を得る(ドーパミンを浴びる)
これを積み重ねて、真っ当な報酬系会派を構築していけば、たぶんバグだらけのいびつな報酬系回路は弱っていくはずだと、自分の脳のが囁いている。
寿命が終わるまでに、修復したいものである。
(過去の)読書
上の文章を書いていて、ふと、十数年前に読んだ「綴り字のシーズン」(マイラ・ゴールドバーグ 著)というか小説を思い出した。
この小説を読もうと思ったのは、書店でちらりと本をめくったときに、私の「自閉症センサー」が働いたからだと記憶している。
まだ「駆け出し」の重度自閉症児の母親だった私は、自閉症に少しでも関係しそうな本であれば、小説であれ何であれ、手当たり次第に読もうとしていた。
「綴り字のシーズン」の作中に、自閉症についての記述はなかったと思うけれども、ちらりと読んだだけで察せられるほど、主要人物のキャラクターには、その気配が濃厚にただよっていたはずだ。
主人公は、膨大な言葉のスペルを記憶できる、天才少女。
父親は子供の才能に入れ込んで自己実現の生贄にするようなダメ親父で、母親は、極めて知能が高いけれども、物の収集に病的にこだわり、人間性に著しい欠落のある弁護士だったと思う。
主人公が綴り字のコンテストで快進撃することで、彼女の家族の関係は崩壊していく。
ラストは、映画「僕と世界の方程式」のエンディングと、少しだけ似ているかもしれない。
「僕と世界の方程式」主人公である自閉症の少年は、数学のコンテストを放棄することで、父親の愛情を理解し、家族の絆を取り戻す。
逆に、「綴り字のシーズン」の主人公は、楽勝できるはずの綴り字のコンテストで、わざと間違った解答をすることで、娘の才能への父親の妄執をぶっち切り、おぞましく歪んだ形で固着しかけていた家族関係を解体に導く。
Amazonの書籍データを検索していて気づいたのだけど、「綴り字のシーズン」は映画化されているようだ。
見て楽しい映画だとは到底思えないけれども、一つだけ、確認したい場面がある。
主人公の母親が、万引きなどして収集した膨大なアイテムを、独特の美的基準にこだわり抜いた配置に従って並べていたという貸し倉庫(だったか、借家だったか忘れた)が、どのように表現されているのか。
この小説で一番魅力を感じた(そしてちょっと羨ましかった)のは、そこだったのだ。