小室哲哉の不倫釈明および引退についての会見の記事というのを読んだ。
小室哲哉会見の100分全記録「5年前から男性的能力なく、男女関係ない」「単語でKEIKOと会話」 (1/6) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
この苦しみに満ちた暮らしを送る人が、公に謝罪をしなくてはならない理由というのが、私には分からない。
回復の見込みの乏しい奥さんの介護、自身の闘病、忙しすぎる仕事の合間の看護師の往診に依存してしまった心情を、不倫として糾弾するのがマスコミの仕事なのだろうか。
奥さんの病状の断片が語られている。
変わってしまった人格。
共有していた音楽への夢や意欲が失われ、日常生活を維持するための介護ばかりか、自閉症のように繰り返される同じ質問への対応など、簡単に仕事と両立できるはずもない。まして自身がC型肝炎と難聴まで患ってしまっては、ごく控えめに言っても毎日が地獄だったことは想像に難くない。
この人を責める権利のある人など、いるんだろうか。
週刊文春の報道を、この人は、自らへの戒めと人生の、転機の示唆として受け止めている。音楽活動を引退してしまうというけれど、本来ならば休養でよかったはずなのだ。ろくでもないスキャンダルが、あるべき選択の後押しをしてくれたということになる。こんな状態であっても、親身に「休みなさい」と言ってくれる人がいなかったということでもある。そこまで孤独だったのだろう。
現実的には、いずれ折を見ての復帰となるのかもしれないけれども、ボロボロになっても休ませてもらえない、休むためには落伍者か背徳者として大いなる謝罪すらもとめられるという、いまの日本の世の中のまずい部分を集約して見せてくれる会見報道ではあった。小室哲哉ほどではないにせよ、多かれ少なかれ、このような価値観に追われながら私たちはここの国で暮らしているということを、見せつけられたのだ。
死ぬか壊れるかしなけりゃ休めないなんて、いったいどんな奴隷なんだろ。
実のところ、小室哲哉の曲はあんまり好きではなかったのだ。なんか、追い立てられるような曲調なんだもの。