自分が何について怒っているのか、何に困惑しているのか、いろいろ思い出しながら、少し頭を整理してみる。
息子(3歳・重度自閉症)がいまの施設に入る前、責任者の人は、たしか次のように説明したはずだった。
「ここの施設は知的障害児を保護するところであって、障害児のための専門的な療育を行なうところではありません。ですから訓練に通うお子さんや病院に行かれるお子さんは、施設を休んで行ってくださってかまいませんし、その場合、どこに行くかということを、施設側に逐一報告する義務もありません。こちらも特にお尋ねしませんので、どうか御自由になさってください」
ところが、施設に入ったあと、私が息子をいくつかの訓練に通わせていることを先生(責任者の人とは別人)に話すと、即座に「そういうことは、近々やめてしまう予定なんですよね?」と問われた。
施設での生活の上に、外でも訓練を受けさせるとなると、子供がくたびれてしまうだろう、という理由のようだった。もちろんやめるつもりなどないけれど、あまりに当然のように言われるので、その場では即答を避けておいた。
訓練の内容についても質問をうけたので、私がいろいろお話すると、「そんな難しいこと、息子くんに出来るんですかぁ?」と聞き返された。「できますよ」と言ったけれど、どうも信じてもらえなかったように思えた。
それから数日後、こんどは別の先生に呼ばれ、別室でいろいろ話すことになった。
内容はやはり、施設外での訓練のこと。
「いろいろおやりになっているそうですね」
といわれ、スケジュールについて簡単な質問をうけた。いままでもいろいろな相談に乗ってもらっている先生だったし、親しみもあったので、とくに構えることもなく、事実を素直にお話した。
このときに、
「施設をお休みして訓練に通っているお子さんは、おられるのでしょうか」
と聞いてみた。息子は訓練のために施設を休んだことはないが、正直なところ、月に一回の言語療法の日ぐらいは、休んで出かけられたらラクだなあという気持ちがあった。なにしろ往復の時間も入れて4時間はかかるのだ。それに、うちの息子のほかにも訓練している子がいるなら、どんなところにどんなふうに通っているのか、知りたいとも思った。ところが先生は、妙な具合に目をそらし、言葉を濁した。
「まあ、そういうお子さんも、いることはいるんですけどねえ・・・」
あ、訓練のこと、よく思われていないんだなと、このとき初めて気がついた。
その後、この先生と話す機会があるたびに、チクリチクリと、施設外での訓練のことを言われるようになってしまった。
決して悪い先生ではない。息子のことをよく見て、目を離さずに、親身に相手をしてくれている。施設のどの先生方も、保育士としては、ほんとによく出来た方だと思う(例外はいるが)。
けれども、息子の脳が抱えたハンディそのものに対して、より専門的に理解しようとする気持ちは、残念ながら持ってもらえないようだった。息子の言葉の遅れに深く関わる認知能力の欠如についてお話し、療育の方向性について理解を求めようとしても、
「私たちは専門家ではありませんので」
の一言でかわされる。それはしかたのないことかもしれない。忙しい仕事をしながら、専門書を読んだり、個別の子供の医学的状況を理解するヒマはないのだろう。けれどもそれならばせめて、子供によっては特殊な療育が必要なことだけでも、理解してほしいと思う。
ほんの少し前まで、息子は、三角と四角の違いも分からなかった。同じ三角でも、角度が違えば、まるっき違うものだと思ってしまっていた。けれども療育教室でのレッスンのおかげで、いまはちゃんと分かるようになっている。そういうことを分からないまま放置していたら、いつまでたっても文字なんて読めるはずがないのである。
言葉にしたって同じである。
息子は、周囲の雑音のなかから、自分に話しかけられている声だけを聞き分ける能力を持っていなかった。母親の声も、風呂に水を張る音も、お姉ちゃんが走りまわる音も、全部いっしょくたに、息子の脳は受けとめてしまっていた。
だから、息子は、いつまでたっても、言葉を覚えられなかったし、たまに覚えてみても、使い方まではとても気が回らなかった。どんなに「息子!」と呼びかけられても、それが台所で皿を洗う音よりも自分にとって特別な音なのだということが、どうしてもわからなかった。
それが療育によって、わかるようになったのである。人の声を聞き分けること、声には意味があることを、療育は息子に気づかせてくれた。だから今は「◯◯くん」と呼ぶと、はいっと手を上げてくれる。放置していたら、こんな能力は一生身につかなかったかもしれないのである。
こうしたことについては、機会のあるごとに、先生にはお話してきた。けれども先生から帰ってきたのは、
「そういう机上の訓練は、実生活では役にたちませんから」
だった。
机上?
たしかにほとんどの訓練は、机にむかって行なわれている。
けれども、呼ばれて返事をするのは机上の生活なのだろうか。文字を読むのは何も机の上ばかりではない。自分の名前を読み書きできること、外界にあふれているさまざまな記号や文字を理解することが、机上以外の場所の生活をどれほど豊かに、安全にしてくれることか。
このあたりで、もう私は先生方に理解を求める意欲をほとんど失ってしまった。
その後、訓練についての当てこすりやチクチクは減っていったけれど、「ちょっとしゃべりましたよー」「こんなことができましたよー」という報告をしていっしょに喜んでもらうという機会も、持てないままである。何言っても、ほとんど無反応。こわいぐらいである。
私のいないところでは、「療育をしている子供は情緒的に落ちつきがない」ということが、先生や親のあいだで平然といわれているらしい。ちなみに、息子が今ほど落ちついていることは、これまでの人生で一度もなかった。
胃がいたい。
明日、ちょっと役所のほうに電話して、相談してみようと思う。
ふたたび墓穴を掘ることになるや否や。
(2001年6月27日)
※過去日記を転載しています。