湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

寒い朝

朝六時に目覚まし時計と携帯電話のアラーム(キッサコの般若心経にしてある)が鳴り出してから、二十分後に立ち上がって、弁当製作。昨日よりはだいぶラクだった。

 

 

朝の準備を終えてから、布団に戻ったけど、頭が動くので、読みかけの雑誌を少し読んだ。これ。

 

 

 

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

 

 

立岩真也氏の文章を読みたくて、Kindleで購入。

 

氏の文章はなんと言うか独特で、かなり読みにくいけどだいぶ慣れた。

 

とにかく地を這いずるように事実を拾い、食み、記述することで刻みつけ、つないで行こうとする、未知の巨大爬虫類(足のないタイプ)みたいな意思を感じる文章だ。

 

 

この事件で亡くなった方の中には、うちの息子のような重度の知的障害の若い方もいたようだ。他人事ではない。犯人の就職先が、息子のお世話になっている施設じゃなかったというだけだ。

 

 

相模原事件の、あの凄惨で類を見ない障害者殺しが、ナチスのT4作戦の影響なんかではなく、昔から今に至るまで、世の中に当たり前のように存在している、影の常識、あるいは無意識に共有されている「普通」の考えに根ざして、そこから生み出されてしまったものなんじゃないかというのは、事件の一報を知った時から思っていたことだ。

 

重度の障害者を殺せと、あからさまに声に出す人は少ない。でも、匿名のSNSにだったら、平気で書く人がいくらでも見つかる。そういう言説を、運営者に「通報」しても、対処されることはまずない。

 

内的な道徳観、価値観に妨げられることなく「殺せ」と書ける人が少なからず存在するということは、そもそも「障害者には生存権が保証されていて、殺してはいけないのだ」という考えが、内面化されていない人が少なからずいるということでもある。不気味極まりないが、それが現実だ。私の親ですら、孫が難病や障害を持って生まれる以前は、「ああいう子は早く死んだ方が本人にとっても家族にとっても幸せ」みたいなことを平気で言ってた。人が死んで幸せなんてことがあるものかと、子供の頃から苦々しく思っていた私のような人間は、周囲では少数派だったから、思うことは口に出さなかった。勝てないのだ。「世の中に貢献しない生命に生存権はない」という常識には。

 

 

 

そう、ネットで相模原事件の犯人に共感を示す人の多くは、「社会に貢献する可能性がない」ことや、「税金の無駄となっている」ことを、その根拠としてあげる場合が多い。

 

働かざるもの食うべからずという、古くからありそうな道徳観は、いまも健在であるようで、その真っ当らしさが、「働けないもの」への圧迫となり、生存権を脅かすことについては、反省はなされない。まして、それを言っている当人の社会貢献度については、一切取りざたされない。タブーなのだ。

 

 

少子高齢化社会なんだから、ほとんどの場合、人生の行き着く先は「障害者」としての余生であると、ちょっと考えたらわかりそうなものなのに、匿名のの迫害肯定者たちは、自ら口にする、他者の生存権の否定が、そのまま自分にも降りかかるものだとは、考えないらしい。がん患者にも「障害年金」が支給される時代なのに。

 

 

なにもわざわざ殺戮しなくても、社会保障を全部切って、障害者や家族への社会的支援をやめてしまえば、収入の低い層、立場の弱い層からどんどん生きられなくなっていくのは想像がつく。親族内での殺人も増えるだろう。そして、そういう殺人に対しては、世の中に同情論という肯定的受け皿がある。社会保障などなかった時代には、そうやって多くの命が消えていったのだろう。それじゃダメだからと、いろんな制度ができて、支援の仕組みも生まれてきたのだろうに、経済的事情をからめた感情論が、他人事の立場から、それらを否定しにかかっている、ように見える。

 

 

重度知的障害者の息子は、個人的な生産性はゼロかもしれないが、社会の中で暮らすことで、独自の経済活動を営んでいるといえる。息子と関わることで、福祉サービスにお金が回り、生計を立てている方々がいる。息子のような人々を介護するのに有効な国家試験も存在していて、知識を学び、実践していこうと志す人が大勢いる。うちの長女もその一人だ。介護福祉士の分厚いテキストで勉強を始めている。そのテキストの冒頭には、日本国憲法で保障される生存権について書かれている。学ぶことが、生きることの深みを知る契機になる、そんな学びだ。

 

 

そうして、支えを必要とする人が、支える人の人生を支えている。

 

当たり前のように死んでいい、殺されていいとされるような人命など存在しないのだということが、 当たり前であった時代は、多分これまでの歴史の中には、存在していなかったのだろう。立岩氏の文章を読んでいると、いやでもそう思えてくる(まだ読み終えてない。だって文体がマジで巨大飽食爬虫類なんだもん。冷えびえするんだもん)。

 

でも、これこらは、かわらないとまずいんじゃないか。そこを変えないと、たぶん誰も生きられない社会になるだろうから。