こんちには。
今日の待ち受けは、ムンクもどき。
iPhoneの画像フォルダを調べたら、2017年7月に描いた絵だった。
左下の「叫び」もどきも、自分で手描きしたものを、アプリで加工して切り貼りしている。
うん、とっても下手くそだ。
(_ _).。o○
昨日、教会学校の帰りに買ったカズオ・イシグロ「クララとお日さま」を一気に読んだ。
以下、ネタバレありまくりの感想。
物語は、人間の子どもの友達になるために生み出されたロボットの視点で語られる。
AF(アーティフィシャル・フレンド)のクララは、自分を選んでくれた病弱な少女ジョジーの命と心を救うために、耳目に入る情報を徹底的に観察、分析し、ある方策に思い至る。
それは、自分たちAFの動力源である「お日さま」と直接面談して、特別なエネルギーを与えてもらうという、荒唐無稽な方法だった。
高性能の人工知能を搭載し、類稀な分析能力を持っているクララは、おそらくは製造元の意向によって、世間の事情に疎い状態のまま出荷され、未知の物事に対して、まるで子どものように純粋無垢な反応を示す。
その反面、唯一無二のパートナーであるジョジーのためには、一切の我欲を表に出さず、心の痛みを飲み込み、きっちりと弁えた行動を取る。
そのありさまは、主人に絶対の忠誠を誓う、奴隷の子どものようでもある。
クララたちを生み出した社会は、AFに人権など認めず、使い捨ての物品として取り扱う。
クララを特別に気に入って自宅に迎えたジョジーでさえも、クララの「気持ち」に配慮することはほとんどない。
人と同じ姿で動き、思考し対話するAFに対して、ここまで邪険にできるものだろうかと、最初のうちは違和感を持ったけれども、読み進めて彼らの世界のデストピアっぷりが見えてくると、仕方がないのだろうと思えるようになってくる。
人工の「親友」を購入して使い捨てにする人々の心の貧しさは、取り換えのパーツとして人間を使い潰す社会によって裏打ちされたものだったのだ。
彼らの世界では、より有能な人間を作るために、子どもたちに何らかの命がけの「処置」が行われていて、「処置」を受けていない子どもたちは、どんなに優れた能力を持っていても、それを活かす未来は完全に閉ざされているらしい。
ジョジーの姉は、「処置」のために命を落としており、ジョジー自身も「処置」によって身体を壊している。
そういう社会からはみ出した人々は、もちろん大勢いるようで、どこかでコミュニティを作って暮らしているらしい。ジョジーの父親もその一人で、社会的地位が高いらしい母親と相容れなくなって離婚し、仕事も捨てて、自分の思想に合った生き方を選択したようだ。
ジョジーの母親は、娘が命を落とす可能性を十分に分かっていながら、我が子が社会から落ちこぼれることを許容できず、身を引き裂かれる思いでジョジーの「処置」を断行したらしい。
そして、「処置」後にジョジーの延命が難しいことが分かると、母親は自分の心を守るために、ジョジーの複製を作ることを決意し、「もしも」の場合には、クララにジョジーに完全になり切ることを求めるつもりだったのだ。
その行為と発想の絶望的な悍ましさに、社会に順応して生きる母親たちは、決して気づくことがない。
そんな人間たちの歪みを全て理解しながら、クララは決して人間を批判しようとせず、ひたむきにジョジーの命を救おうとする。
それも、自らの意識の中に自然発生した、「お日さま」への深い信仰と祈りという、極めて不合理なやり方によって。
クララは、太陽光を遮る公害を撒き散らしながら稼働する機械を贄として「お日さま」に捧げ、日没直前の夕日に満たされる場所で、ひたすらにジョジーへの助力を乞い願う。
驚くべきことにその願いは叶えられ、ジョジーは無事に成長し、クララはAFとしての役割を終え、廃棄される。
人間性を否定する社会の中で生み出され、人として扱われることのないAFが、大切な人を守るために、極めて人間らしい、不合理な信仰に目覚め、それを全うするという皮肉。
カズオ・イシグロ作品を読了したのは初めて。
あちこちで書評などを見たところ、この作品に見られるようなデストピア風味は、他の作品にもあるらしい。
オーウェルの「1984」よりはソフトだけれども、「クララとお日さま」の社会背景は、だいぶ黒々としていて救いがない。
脇役で出てくる「処置」を受けた子どもたちと、その母親たちは、人間性がだいぶイカレていて、この先まともな未来を作れるようには思えない。いずれ内側から破綻しそうに思う。
廃品置き場に捨てられたクララは、長く意識を保ちながら、いずれ変容していく社会と、そこに生きるジョジーたちを見ることになるのかもしれない。