湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

息子、ディープパープルを口ずさむ

息子(3歳・重度自閉症)は、今日もうたった。

お風呂に入るとき、私がなにげなく、ディープパープルの「湖上の煙」(邦訳・王様)という曲のイントロを口ずさんでいたら、息子もマネをはじめたのである。

 

「べっべっべーん、べっべっべべーん、べっべっべーんべっべーん」(←私)
「でっでっでー、でっでっででー、でっでっでーでっでー」(←息子)

 

ツェッペリン万歳。王様万歳。

あんまりうれしかったので、のぼせるまで風呂に入ってしまった。

あがってから、息子は昨日うたってくれた「アイアイ」を、ふたたび披露してくれた。

それから、息子は「握手」もマスターした。

「◯◯くーん」と呼んで手をさしだすと、息子は口の形を「はーい」としたあと、そっとこちらの手を握ってくれる。返事の声はまだほとんど出ないが、もう一息である。


どこかのロータリークラブの人たちが、どっかの知的障害者の生活施設に暮らす人達を、銀座の寿司屋につれていって御馳走した、という、小さな新聞記事を読んだ。記事には黙々と寿司を食べる大人の障害者たちの写真が添えられていた。

 

なぜこういう「施し」の出来事が新聞に載るのだろうと、不思議に思う。「施し」の記事は、いつもこんな具合である。そしてこんな記事では、おそらく成人自閉症者がたくさん暮らしていると思われる障害者施設の生活なんて少しもわからないし、寿司をおごったというロータリークラブの人たちの気持ちや声もわからない。施設の人たちに、どうしても銀座の寿司を食べたいという切ない気持ちがあって、それをお金持ちのロータリークラブがかなえてあげたのだろうか。それとも単なる善意の押しつけか。予算はいくらぐらいかかったのか。偏食で寿司を食べることのできなかった障害者はいなかったのだろうか。施設の障害者たちが集団で銀座に出たときに、周囲の人の目はどんなだったのか。奇声をあげたりする場面はなかったのか。そもそも、何人が出かけたのか。私の知りたいことが、記事には何も書いていない。記者も物を見ていないのだろうか。それとも、見ていて「書かない」ことを選択したのか。

 

お金のある人たちに、銀座で寿司をおごるよりもやってもらいたいことがいくらでもある。

 

施設に通う子供たちが、「保護」されるだけでなく、日常的に知的能力を伸ばす場に身をおけるように、資金と人材を届けてほしい。そうして、子供たちがいつか、自力で金を稼いで、寿司でもなんでも食べることができるような、人生の希望を与えてもらいたい。

 

そんな面倒くさい手間と金をかるぐらいなら、寿司でもおごったほうがラクだということなのだろうけど。


(2001年6月24日)

※過去日記を転載しています。