こんにちは。
久々の快晴。
空の青色を見ているだけで、脳の中の靄がスカッと晴れたように感じる。
物語
六月くらいに、頭の中でエンドレス再生される、自作の物語についての日記を書いた。
物語といっても、場面があるばかりで、少しも話が進まない。出てくるアラ還女性と、居候らしい小さなゴブリンは、縁側でほうじ茶をすすりながら。ずっと庭を見ているだけなのだ。
その場面が、二ヶ月近く頭の中で再生され続けて、流石に鬱陶しくなってきた。
それで、時々リレー小説などやって遊ぶ友人に、助けてもらうことにした。
アラ還女性とゴブリンが住む世界の基本的な設定だけ共有して、友人にゴブリン視点のパートを書いてもらい、私はアラ還女性視点のパートを書き始めた。
途端に、面白いほど物語が動き始めた。
私には長編小説を書く才能がない。というか、根本的に向いていない。創作系では短い文章を書くのが好きなのだ。せいぜい3000字程度の掌編。あるいは短歌。
長いお話を書けない理由は、自分のなかで別人格をこしらえて、リアリティを持たせて動かすことが、とても苦手だからではないかと思う。
そんな私だけど、長編小説を書いたことが、人生でたった一度だけあった。
とある戦闘系ネットゲームで、所属していた大同盟が敗戦し、数百人の同盟員と一緒に、数ヶ月間の幽閉生活を送ることになったことがあった。幽閉といっても、ゲームフィールド内での資産(資源生産地や村など)が戦勝同盟に没収されて、自由な行動が許されなくなるというだけで、それも当該シーズンが終了して新ゲームが始まるまでのことだけれど、負けっぱなしで数ヶ月何もできないのでは、ゲームに対するモチベーションが下がってしまうのは当然で、次第にゲームにログインしなくなる仲間が増えてきた。
んで、思いつきで、同盟員が登場するファンタジー小説を毎日書いて、配信し始めたのだ。ネットゲーム仲間だから現実に会ったことはないけれど、チャットやゲーム内メールでしょっちゅうやりとりしているから、人柄はそれなりに把握できる。その全員に、架空の王国の王族や大臣、姫君、城や要塞など、人間や人外まで、ありとあらゆる役を振って、とんでもないお話を作った。ほんとうに下手くそな小説だったけど、敗戦で寒々しい空気だったこともあって、喜んで読んでくれる人が多かった。記憶では170話くらいで幽閉期間が終了し、お話も完結させたのだったと思う。配信して数分後にはチャットやメールで感想やリクエストがどっさり届くという、有り難くも凄まじい状況だったけど、ほんとうに楽しかった。
思えば、自分でキャラを作らなくて済んだから、長編が書けたのだと思う。
ゴブリンとアラ還女性の物語が、どこまでたどり着くかは分からない。ゴブリンさんは家の外に出て冒険者になるらしい。アラ還女性のほうは、家の中でとりあえず人間らしい意欲をもって「動く」練習をしている。まるで私みたいに。
言葉
気分がいいので、この40年ほど、ずーっと分からないまま放っておいた単語の意味を調べてみようと思った。
クイーンの「ボヘミアン ラプソディ」の歌詞にでてくる、「ファンダンゴ」。
アニメ映画「シュレック3」(吹き替え版)の、ドンキーのセリフにも出てくる単語だ。
なんで調べずに放置していたか。
簡単にいうと、日常生活で耳にしただけの単語の意味を獲得する経過を観察するための、ちょっとした実験のつもりだったのだ。
ところが、40年の間に、「ファンダンゴ」という単語の使用例に触れたのは、「ボヘミアン ラプソディ」と「シュレック3」に登場する二例のみ。
「シュレック3」の例は、シュレックとフィオナが怪しい笛吹きの音色に洗脳されて、タンゴを踊りながら敵の罠に囚われてしまうという場面だったので、踊りに関係するんだろうかとは思っていたけど、「ボヘミアン ラプソディ」の歌詞の文脈では読み取れる情報が少なく、結局、意味の確定には至らなかった。
で、さっきウィキペディアを調べてみた。
「ファンダンゴ」は、スペイン起源のダンス、またはそれとともに歌われる歌あるいは音楽。英語では「馬鹿騒ぎ」の意味もあるという。
「ファンダンゴ」は全ヨーロッパに広がり、クラシック音楽やバレエにも取り入れられ、モーツァルトの「フィガロの結婚」の中にも出てくるという。
あー、それで、いきなりフィガロが登場する「ボヘミアン ラプソディ」の歌詞に出てくるのか。
納得。
あとで、「ファンダンゴ」の動画を探してみてみよう。
40年がかりの「実験」については、
・採取できた用例が極めて少数で、なおかつ日常とは無縁の文脈に依存したものでは、用例から意味を特定するのは困難である。
という、何の役にも立たない結論を出して、終了とする。
それにしても、四十年間、「ボヘミアン ラプソディー」と「シュレック3」以外で「ファンダンゴ」という単語を一度も耳にしなかったし、目にも入らなかったというのは、ちょっとすごいと思う。
逆に、日本語の日常会話に定着して、自然に使われるようになり、小規模の国語辞典にも当たり前のように掲載されるようになる外来語は、一体どのくらいの頻度で耳目に入り込んできているのだろう。
さらに、一時期定着しても、使用頻度が衰退して、限りなく「死語」寄りになっていく言葉たちは、どの程度まで使用頻度が下がったところで、日常語としての命脈を絶たれるのか。
そちらのほうが、むしろ知りたくなってくる。