湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

心中とか詐称者とか脇役とか

こんにちは。

 

kindleのアレクサさんに、「アレクサ、ナツメロかけて」と注文したら、アン・ルイスの六本木心中が流れ出したので、「えっ?」と思った。そうか、もうナツメロなのか、アン・ルイス…。

 

 

六本木心中 (Single)

六本木心中 (Single)

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私が若いころに懐かしのメロディといったら、昭和初期から終戦直後にかけての歌謡曲のことだったのに。東京ブギウギとか、そういう感じの。


「六本木心中」が発売された年を調べてみたら、1984年だった。

38年前。

まあ、懐メロだなと納得した。


ちなみに笠置シヅ子の「東京ブギウギ」が発表されたのは、1947年。六本木心中の37年前になる。

謡曲は、だいたい40年ほどで、懐メロの枠に入るのだろう。


それより古くなってくると、今度はその曲を聴いて懐かしいと思う人がどんどん少なくなるわけだから、懐メロとは言えなくなっていくのかもしれない。


懐かしさというフィルターを除去しても人の心をうつような曲は、「古典」に繰り入れられるのだろうか。


リメイクされて、新しいファンをつかむような曲は、さしずめ「不死曲」だろうか。

 

 「六本木心中」で記憶の扉があいたので、80年代の歌謡曲をいろいろ聞いてみている。

 

なんとなく思い出した「すみれ September Love」も、1982年の曲らしい。歌っていたのは一風堂だったか。とくに好きだったわけではなく、曲の雰囲気がYMOとものすごく似てるなと思っていただけだけど、何かの音楽番組で、一風堂の人たちがYMOと共演して、ものすごく緊張している様子だったのが記憶に残っている。

 

 

すみれ September Love

すみれ September Love

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そういう「懐メロ」を聞いていて感じるのは、シンプルで歌いやすい曲が多いなあということだ。音痴でリズム感のない私でも、鼻歌程度にはマネして歌うことができる。

 

最近の曲は、正直難しい。うまく歌えないとかではなく、複雑で覚えられないのだ。

 

カーラジオからしょっちゅう流れてくる、Official髭男dismの「Pretender」などが私の中では「覚えられない」代表格になる。

 

Pretender

Pretender

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歌詞に押韻のような技巧が凝らされていたり、奇妙なタイミングで息継ぎ的に区切れがあったりするという、形式面の問題もあるけれども、歌の背景となっている物語世界みたいなものを、うまくイメージすることが私には難しい。

 

歌詞によれば、二人の「ロマンス」は始まっているのに、長続きしそうにないことが強く予感されている。

 

おそらくは「僕」の告白に「君」は応じて、現時点では恋人関係になっているのに、「僕」のほうは、自分が「君」の運命の相手ではないと悟って、心のなかで明確に別れを告げているものの、離れられずにいる。

 

「君」は「僕」に対して、感情のない謝罪を告げることで、恋人らしい振る舞いを拒絶している感じなのだろうか。

 

よくある状況としては、「君」にはほかに思う人がいて、その思いがかなえられないために、「僕」の求愛をとりあえず受け入れたものの、心を開くには至らない、「僕」のほうもそれが分かっていて告白したものの、愛に答えてもらえないむなしさに苦悩する、という感じかなとも思うけれども、そういう古典的な恋愛の齟齬とも違う何かがあるように思える。

 

何が違うんだろう。

 

離れがたい、物分かりのいい存在になりたくないと、散々ゴネながら、お互いの関係を冷静に分析して、きっぱりと「グッバイ」を連呼する「僕」の、渦中にいながら俯瞰の位置から動かない、おかしな立ち位置のせいかもしれない。

 

これは、まるでゲームのプレイヤーのような視点でもあると言える。

RPGの主人公をマイキャラとしてプレイするなら、プレイヤーは主人公を俯瞰しながら物語の主役の立場に自分を置くことになる。

 

ああでも、その場合は俯瞰ということだけが共通するだけになるのか。

 

「Pretender」の「僕」は、その主役というポジションすら、「君」や「君」の運命の人に譲り渡しているように聞こえる。歌には「僕」の自己憐憫の要素が見えない。シンガーの声質のせいもあるのだろうけど、「愛を得られずに諦めることを覚悟する僕」というような、ナルシスティックな心情の誇示すら、私には薄く感じられる。このあたりは人によって感じ方は違うのだろうけど。

 

唐突に、この歌の「僕」と、夏目漱石の「行人」の一郎とを比較してみる。

 

一郎は、妻が自分に対して冷淡であることに苦しみ、妻が弟を愛しているのではないかと疑って、怒りと嫉妬を抑えきれず、執拗に関係性を確かめようとする。その決着がつかないとなると(つくわけがない)、今度は心を閉ざしてしまう。アホである。

 

思う相手から相応の愛を返してもらえないことに苦しむところは、「Pretender」の「僕」と似ているけれど、一郎には、二人(弟も入れて三人か)の関係を冷静に俯瞰する視点などない。自分の孤独に囚われすぎていて、相手の孤独に思いも及ばないまま、思索の迷路にはまり込んで、心身を病んでいく。重ねていうが、アホである。

 

それにくらべて、「Pretender」の「僕」は、まず「君」の心情に対する冷静な理解と、あきらめがある。そして「君」の運命の人となるべき第三者への嫉妬の気配が薄い。立場が違うのだと、最初から諦めている。別れる覚悟もしている。それでも離れないのだからアホなのかもしれないけれども、一郎とは違う。

 

なんだろう。

自分が主役ではないらしい物語の主旋律を、主役として歌うという構造になっているから、分かりにくいと感じられるのか。

 

「Pretender」の「僕」は、「行人」の「二郎」なのかもしれない。

「二郎」も、主役のはずなのに、最後まで脇役で終わっていた。

 

とまあ、まとまらないことを書いたけど、きりがないのでここでやめておく。

気が向いたら続きを考えよう。