湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

昼下がりの万葉集 いけてない男たち

今日はめずらしく、「行けた?」男たちの歌である。

 

なぜ「?」というのがついているかというと、「出発」はしたけれど、目的地にちゃんと「到着」したのたかどうかが、どうもはっきりしないからなのだけど、それについては後述する。

 

今回とりあげる四首のうち、三首は、長田王(ながたのおおきみ)という人が、筑紫と薩摩に出かけて詠んだもの。石川大夫という人も同行していたようで、間に一首挟まっている。

 

長田王(ながたのおほきみ)は、奈良時代初期の皇族で、聖武天皇のころに、摂津職(せっつしき)に任命されていた(732年・天平4年)。

 

摂津職は、軍事面でも物流面でも重要視される摂津の国の、国司のような仕事をする役職で、司法、行政、警察を担当したほか、難波の宮の管理も行っていたという。(ウィキペディアによる) 

 

聖武天皇は、難波宮平城京の副都として建造し(726年着手)、短期間だけれども難波宮に遷都していたこともあった(744年・天平16年)。

 

長田王は、難波宮遷都前の737年(天平9年)に亡くなっているけれども、摂津職在職中は、さぞ忙しかったことだろう。そうした固い仕事だけでなく、歌垣で頭をつとめたという記録もあるそうで、万葉集には、今回の歌も含めて合計六首が掲載されている。

 

で、その歌なのだけど……

 

長田王被遺筑紫、渡水嶋之時歌二首

長田王(ながたのおほきみ)の、筑紫に遣はされて水島に渡りし時の歌二首

 

如聞 真貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋  (245)

聞きしごと まこと貴く 奇すしくも 神さびをるか これの水島

ききしごと まことたふとく くすしくも かむさびをるか これのみづしま

 

【普通の意訳】

噂通り、まことに尊く、不思議に神々しいことであるよ、この水島は

 

 

葦北乃 野坂乃浦従 船出為而 水嶋尓将去 浪立莫勤 (246)

葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ

あしきたの のさかのうらゆ ふなでしてみづしまにいかむ なみたつなゆめ

 

【普通の意訳】

葦北の野坂の浦から船出して、水島に行こう。波よ立つな、決して。

 

 

石川太夫和歌一首 

奥浪 辺波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方  (247)

沖つ波 辺波立つとも わが背子が み船の泊り 波立ためやも

おきつなみ へなみたつとも わがせこが みふねのとまり なみたためやも

 

【普通の意訳】

沖の波や、岸辺の波が立つことがあっても、私の貴方様の船が停泊するあたりに、波が立つことがありましょうか。

 

又長田王作歌一首

隼人乃 薩摩乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨   (248)

隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くもわれは 今日見つるかも

はやひとの さつまのせとを くもゐなす とほくもわれは けふみつるかも

 

【普通の意訳】

隼人の国である、薩摩の瀬戸を 雲のように遥かな遠くに、今日、私は見た。

 

 

普通に読めば、スナップ写真的な観光記録と、船旅の無事を祈る思いを書き留めた歌という印象だけれども、よく読むと、なんだか変なところがある。

 

 

まず、長田王たちが目指していた、水島という場所について。

 水島は、熊本県八代市球磨川河口付近に現存している。

 

ウィキペディアの「水島」の記事

 

東西九十三メートル、南北三十七メートルというから、学校の校庭よりも狭い。

陸とつなげてあるので、地図上ではもはや「島」ではなく、孵化したばかりのモンシロチョウの幼虫が、葉っぱの縁から落ちそうになっているような、はかなげなカタチになっている。近年、崩落が著しく、保全工事をしようかという話になっているらしい。

 

 

 

 

この水島には、景行天皇が訪問した際に、神に祈ったら冷水がわいたという伝説があるという。

 

長田王が「くすしくも かむさびをるか(不思議で神々しいなあ)」などと歌っているのは、その伝説を踏まえてのことだろう。


さて、長田王は、245の歌では、「聞きしごと まこと尊く」などと、いかにも水島に到着して、その神々しいありさまを、目の当たりにしたかのような歌を詠んでいる。

 

ところがその次の246では、


「舟出して 水島に行かむ(舟を出して水島に行こう!)」
「波立つなゆめ(波よ立ってくれるな)」

 

と、歌っている。これはどう見ても、水島行きの船出前の歌である。

 

その次の247は、石川太夫という人が、長田王の歌に「唱和」して詠んだものだという。内容も、船出しようとする長田王の無事を祈るものである。


どう見ても船出前に詠まれたとしか思えない、この二首が、なぜ、水島礼賛の歌のあとに掲載されているのだろう。


しかも奇妙なことに、248では、長田王は、「薩摩の瀬戸」を見たと詠んでいる。


薩摩の瀬戸とは、鹿児島県阿久根市黒之浜と、天草諸島の南端長島(同県出水郡東町)との間の、長さ三キロメートル・幅三百~七百メートルの海峡のことで、現在は「黒の瀬戸」とよばれているところだという(小学館の古典文学全集本の「萬葉集」の付録より)。ここは、水島から南西方向に60キロから70キロほど離れている。

 

 ちなみに、246の歌で船出の地点とされている「あしきたの のさかのうら(芦北の野坂の浦)」は、熊本県芦北郡の田浦町か、芦北町佐敷ではないかと言われているという。いずれも、水島から南西方向に20キロメートルほど離れたところにある。

 

  • 245の歌(長田王)「伝承の通り、水島は神々しいのである!」
  • 246の歌(長田王)「野坂の浦から水島目指して船出するぞ~。波よ荒れるなよ~」
  • 247の歌(石川大夫)「愛しいアナタの船が停泊している海は、荒れないわヨ」
  • 248の歌(長田王)「うおお! 俺は遥か遠くに薩摩の瀬戸を見たぞ!」
     

これらの歌が、時系列に沿って万葉集に掲載されているのだとすれば、長田王は、「水島」を見て絶賛してから、「水島」に向かって船出しようとし、その後なぜか「水島」とまるっきり反対方向にある「薩摩の瀬戸」を遠望しているのである。


編者が歌の掲載順を間違えたのでなければ、245の歌の時点では、長田王は水島を見ていない可能性がある。


聞きしごと まこと貴く 奇すしくも 神さびをるか これの水島 (245)

 

改めて読んでみると、伝説によって植えつけられたイメージから、一歩も出ていない歌ではある。

 

出発前に旅行ガイドを読みふけって、自分の中で膨らんだ伝説の地のイメージに感動しているような感じだろうか。

 

「これの水島」という言い方に、引っかかるものがある。現実に水島を目の当たりにしているなら、「この水島は」でもよさそうなのに、なんで「これ」なのか。

 

国立国語研究所の日本語歴史コーパス中納言」を使って、万葉集に出てくる「これの+名詞」という表現を検索してみたら、長田王の歌を含めて、3例しかなかった。後につづく名詞が地名(固有名詞)であるものは、245の長田王の歌一首だけ。「これの水島」が、だいぶ特殊な表現であることが察せられる。

 

「これの」という表現の特殊性が、この歌を解釈する上でどんな意味を持つのかを精査して見きわめることは、私には荷が重いので、ここでは、長田王の感動が極めて強烈で、なおかつ特異なものであった可能性を、頭の隅に残しておくにとどめる。

 

 

水島を実際に見たのかどうかよくわからない長田王は、「薩摩の瀬戸」については、


「我は今日見つるかも」(俺は今日見ちゃったぜええ!)

 

と断言している。


いったいどこから「薩摩の瀬戸」を見たのか分からないが、雲が漂うようなはるかな遠方というのだから、間近に見たのではなさそうだ。

 

実際に近くに行ってから詠めばよさそうなのに、そうしなかったのは何故なのか。

 

そもそも、長田王は、なんのために九州まで出かけたのだろう。


248の歌に出てくる「薩摩の隼人(はやと・はやひと)」というのは、勇猛果敢なことで知られる種族なのだという。

 

その「隼人」たちは、720年(養老4年)に、国司を殺害し、反乱を起こしている。

 

朝廷は兵一万以上からなる軍を派遣し、「隼人」を鎮圧する。その軍を率いた大将軍は、大友旅人だった。長田王が摂津職に就任する12年前の出来事である。

 

朝廷に従うようになってからの「隼人」たちは、摂津国大和国などの畿内に移住し、宮中警備などを担当したという。

 

摂津職として警察の仕事をしていた長田王は、もしかすると、「隼人」たちを部下として、警備に当たらせていたかもしれない。そうだとするなら、その関係で、薩摩方面に出向いた可能性もある。ただ、

 

では、水島には、何のために立ち寄ろうとしたのだろう。

 

水島伝説の景行天皇は、大和武尊(ヤマトタケル)の父親であり、息子より先に九州を巡って、熊襲(くまそ)の人々を征伐したと言われている。熊襲は「隼人」と同一だとか、熊襲の末裔が「隼人」であるとか、いろいろな説があるようだ。

 

長田王が筑紫に行った時期が分からないけれども、摂津職就任後、つまり「隼人の乱」の起きた後に、「隼人」がらみで九州に行ったのだとすれば、かつて「隼人」たちの先祖を制圧したとされる景行天皇の九州巡幸を強く意識した可能性は高いと思う。

 

とすれば、水島に立ち寄ることは、長田王にとって、一種のゲン担ぎであったかもしれない。

 


伝説に名高い水島を称え、「隼人」たちの故郷へ通じる「薩摩の瀬戸」を「見た」と詠う長田王の心中に去来するものは、はたして何だったのか。


それともう一つ。
石川太夫という人は、歌の中で、長田王を「背子」と呼んでいる。「背子」は普通、女性がいとしい男に呼びかける言葉である。


二人の間に、いったい何があったのだろうか。

 


  
   《意訳・・・?》

 


長田王 「おおおっ、見える見える! これぞ、かの有名な水島! いわゆるひとつの景行天皇レジェンド! 水に祈ったら島が出たとかいう!」

 

石川太夫 「それ、逆でしょ? 島で祈ったら水が出たんですよ」

 

長田王 「いやーミラクルな旅ですねえ! ドキドキが止まりませんよ! 心臓から口が飛び出しそうです!」

 

石川太夫 「それも逆。船出前なんですから、ちょっと落ち着きましょうよ。ここは野坂の浦ですよ。水島なんか遠すぎて見えませんて」

 

長田 「見えないことなどありません! 森羅万象あらゆるものは見えれば見える。見なきゃ見えない。見えたのなら、すなわちそれは、見たということなんですよ! 」

 

石川「意味わかりません。てか、水島は逆方向でしょ。俺ら、これから薩摩行きですよ」

 

長田「ワタシを水島に連れてって!」

 

石川「なんかもうテンションおかしいですよ。そういや、ここのところ緊張してあんまり寝てなかったでしょう」

 

長田「そう、キンチョウ! 旅の途中であれやこれやと謹聴したんです! あの恐ろしくも劇的にブラッディな、景行天皇熊襲制圧のレジェンドを! 姦計! 殺戮! 愛と狂気のスプラッタ! 子どものころからあの時代のお話を聞くと夜眠れなくなったものですが、いくつになっても全く眠れません!」

 

石川「あー、アレはまあ、俺でもわりと肉食いたくなくなる話ではありますがね。熊襲っていえば、隼人ですけど、これから現地で隼人の方々に会って、警備員採用の面接とかするんでしょ? 寝不足で大丈夫なんですか」

 

長田「だからこその、水島なんです! 景行天皇にあやかってですね、伝説の水の一杯でもいただいたなら、こう、堂々と勇猛にですね、上司の風格を果敢にまとえるのではないかと」

 

石川「別に自然体でいいんじゃないですか? 隼人の反乱鎮圧した大伴旅人さんとか、わりと力抜けた感じのお方だったみたいだし」

 

長田「あんなヨッパライと一緒にしないでください! 酒なんか飲みません! 水が一番! そして水は水島の水!」

 

石川「あんた下戸でしたっけ。あ、そろそろ乗船しましょう」

 

長田「うえっぷ。酔った」

 

石川「酒飲んでないでしょーが」

 

長田「ちがう。船酔い」

 

石川「乗る前から船酔いするんですか。どんだけ三半規管が過敏なんですか」

 

 

長田 「ノーモア船。おえっぷ」

 

石川 「水でも飲んで耐えてください。今日は波も静かですし、たいして揺れませんから」

 

長田「水島の水ー」

 

石川「ありません」

 

長田「じゃあ、なんか心を癒すモノ」

 

石川「たとえば」

 

長田「伝説の美女」

 

石川「はあ?」

 

長田「キミ、ちょっと女になって」

 

石川「何言い出すんだか・・・女装でもしろと?」

 

長田「それはキモいからいらない。歌詠んで。船出する愛しい彼氏を切なく見送る美少女と豊満ボディの慈母を合体させたイメージで」

 

石川「まためんどくさいことを……詠んだら船に乗ってくださいよ」

 

長田「いやだ乗らない」

 

石川「おーい! 誰か、このオッサン簀巻きにして船に積んでくれー」

 

 

やっぱり、「行けてない」話になってしまったようである。

 

 

(2005年05月30日) 

(2020年10月22日 全面改稿)

 

※他ブログに同内容の記事を掲載していましたが、今後、こちらにまとめていく予定です。

 

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