湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ねこたま日記(3月3日)

こんにちは。

 

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日曜日なので、教会学校に出かけた。

末っ子は友人たちと旅行に出ているので、私一人で参加したところ、いつも来ているご家族がみんなお休みだったため、大人ばかりの子ども礼拝になってしまった。

 

一番年下の私が61歳、牧師先生も日曜学校でお話ししてくださる先生も私よりずっと年上で、最年長の方は90代だったはず。推定平均年齢が80台かもしれないという、大変にレアな「子ども礼拝」になった。

 

今日は、マルコによる福音書の第14章に出てくる、ナルドの香油のお話だった。

 

重い皮膚病の人シモンの家で、ある女性がイエスに高価な香油を注ぐ。その場にいた人たちが、女性の無駄遣いに憤って責めたのを、イエスがたしなめる。

 

この女はできる限りの事ことをしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

 

マルコによる福音書 第14章 8節

 

ナルドの香油は、当時の人の一年分の年収に相当するほど高価なものだったという。

 

女性にとって、イエスは、それほどの金額を注ぎ込んでも惜しくないほど、全力で推せる存在だったのだろう。

 

マルコの福音書では、女性の名が明かされず、彼女の行動に憤った人の名前も書かれていないけれど、ヨハネ福音書では、女性はマリアであり、怒って騒いだのはユダであると書かれている。

 

このあとユダは、イエスを祭司長たちに売り渡すべく行動を開始する。ユダの裏切りの理由は、新訳聖書では「もともと金に汚かった(会計をちょろまかしていた)」「悪魔が中に入ったせい」という感じで説明されているけれど、案外、この香油の件で、自分はイエスとは相容れないと明確に分かってしまったからではないかという気がする。

 

現世での政治権力にも財産にも執着せず、まもなく訪れる死に抗うこともしない指導者を、マリアのように人生賭けて推すことはできないと、悟ったのではなかろうか。

 

推しを裏切って殺すという形で推し活を辞めたユダは、イエスを売った金で土地を買ったあと、なぜかその土地に墜落死した(使徒言行録)とか、貰った金を神殿に放り込んで首吊り自殺した(マタイによる福音書)とか言われている。

 

なんとなく、三日天下の明智光秀を思い出す。

安土城で家康をもてなすように命じられた光秀は、もてなしに不備があったとして信長にきつく叱責され、その直後に裏切って本能寺の変を起こしたものの、天下人になることなくあっけなく死んでしまう。

 

人生賭けた推しを殺す代償は、自分の死であるらしい…

 

などと、まとめていい話ではないだろうけど、そういうところまで追い込まれる前に、できることはあっただろうに、とは思う。ユダも光秀も。

 

 

 

 

 

 

 

 

ねこたま日記(2月26日)

こんにちは。

 

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愛媛の方で少し大きな地震があったらしい。

 

亭主と末っ子が電車で関西に向かっている最中だったので心配したけど、最大で震度4、津波もないとのことで、とりあえず安堵した。

 

大きな地震の前触れでないといいけど。

いつか来るとしても、まだ寒い今でなくていい。

 

(_ _).。o○

 

この1週間の栄養状態。

 

オレンジ色は、プロテインサプリメントで補った分になる。

 

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スリムアップスリムを飲まなければ、タンパク質は全く足りていないことになる。

 

頑張って肉魚豆を食べないと。

 

 


しかし、食が細くてエネルギーも慢性的に足りていないのに、全く痩せないのは何故なのか。

 

まさかとは思うけど、タンパク質が足りなくて、浮腫んでいるのか?

 

でも血液検査で、アルブミンが低いと言われたことはない。

 

検査項目に入ってないのだろうか。

ありそうな気がする。

 

いずれにせよ、タンパク質を食べ足りていないのは確かだから、しっかり摂るしかなさそう。

 

 

(_ _).。o○

 

昨日の日曜礼拝で教わった、マルコによる福音書の「やもめの献金」の話の少しあとに、イエスが終末の兆しについて語る場面がある。

 

弟子たちが、神殿の素晴らしさに感嘆しているのを聞いて、イエスはその建築物が跡形もなく崩壊するだろうと言う。

 

弟子たちが驚いて、いつそれが起こるのかと問う。

 

それに対するイエスの答えは、おそらくはイエスの死後のユダヤ戦争や、エルサレム陥落を示唆しているようだけれど、もしかしたら二千年後の現代の話じゃないのかとヒヤリとするような、いろいろと思い当たる言葉が連なっている。

 

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

 

民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

 

マルコによる福音書 第13章 7-8節

 

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら──読者は悟れ──、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

 

屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。

 

それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである

 

マルコによる福音書 第13章 14-19節

 

よく知らなかったのだけど、イスラエルは日本と同じように、大地震に見舞われる国だ。

 

新約聖書に近い時代だと、紀元前31年、アラブとの大戦争という国難の真っ最中に、巨大地震が起きて、三万人が死亡したのだという。

 

その大地震は、イエスが生まれる前、ヘロデ王がローマに接近してユダヤの王となった数年後に起きている。

 

具体的な被害は分からないけれど、死者の多くは家屋の倒壊によるものだったのではないかと思う。神殿のような石造りの建造物は、火災には強そうだけど、崩れたら中にいる人は助かりそうにない。

 

上のイエスの言葉も、地震を示唆しているように思える。屋上からおりるな、家に戻るなとあるのは、家屋の倒壊に巻き込まれないようにとの配慮ではないだろうか。山に登れとあるのは、津波の被害の回避を促す言葉のようだ。

 

イスラエル津波が来たことがあるのかどうかは分からない(ざっと検索しても見つからない)けど、昨年二月に起きた、トルコ・シリア大地震では、キプロスとトルコ沿岸で小さな海面変動が観測されたという。

 

世界地図を眺めてみて、地中海のご近所であるトルコやキプロス津波が来るなら、イスラエルの沿岸に来ることもあり得るだろうと大雑把に考えたけど、どうだろう。

 

「冬に起こらないように」祈ったほうがいいような、「今後も決してないほどの苦難」。

 

東日本大震災と、元日の石川の大地震を知っている日本人なら、誰だって「地震だよなあ」と思うだろう。

 

地震と戦争の組み合わせは、第二次世界大戦末期の日本でも起きている。

 

1943年、鳥取地震

1944年、昭和東南海地震

1945年、三河地震

1946年、昭和南地震

 

戦争で打ちのめされている最中に、四年連続で巨大地震に襲われるとか、昭和の日本、どれだけ運がなかったのか。

 

見方を変えれば、そのとんでもない大災害と大損害が「産みの苦しみ」として働いて、いまの日本があると言えないこともないけれども、当事者ならそんなことは絶対に言えない。

 

 

 

エスは、何を予見して、上のような言葉を残したのだろう。

 

 

 

(新共同訳「新約聖書」は、現在Kindle Unlimitedで読み放題利用できます。)

 

 



 

ねこたま日記(2月25日)

こんちには。

 

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今日も寒い。

小雨が降っていて、外の気温は5度。

 

(_ _).。o○

 

朝、なかなか起きない末っ子を叩き起こして、教会の日曜礼拝へ行ってきた。

 

今日のお話は、マルコによる福音書にある、「やもめの献金」だった。

 

エスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

 

ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。

 

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。

 

マルコによる福音書 第12章 41-44節

 

この時代、神殿には十三個もの賽銭箱が置かれていたそうで、箱ごとに、献金されたお金の使い道が、定められていたのだとか。

 

やもめが献金したレプトン銅貨2枚は、いまの日本円に換算すると160円ほどの価値だったという。

 

二千年前に、夫を失ったユダヤ人女性が、どうやって生活費を得ていたのかは分からないけれど、一日の生活費が160円ほどだとするなら、夫から受け継いだ財も、母を養ってくれるような息子もおらず、ほとんど物乞いに近い状態だったのかもしれない。

 

そんな貧しく苦しい暮らしにも関わらず、やもめ女性が生活費全額を賽銭箱に入れたのは、信仰の深さによるものだという。それは信仰による自己犠牲ではなく、「お金がなくても、神様が必ずなんとかしてくれるから大丈夫」という、絶対的な信頼に基づく行動なのだという。

 

礼拝のときに必ずする「主の祈り」にも、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とある。信じて祈れば、一日を暮らしていけるのだから、不安に思うことはない……キリスト教の信仰の基本が、そこにあると私は思っている。

 

「日用の糧」という言葉から即座に連想するのは、災害被災者と、難民の暮らしだ。

 

国連UNHCR協会によると、2022年に戦争や迫害などで家を追われた人は、全世界で1億840万人にも登るのだという。

 

そのうち難民と呼ばれる人は3530万人で、その76パーセントは中低所得国に受け入れられているという。

 

難民の出身国は、上位から順に、

  1. シリア
  2. ウクライナ
  3. アフガニスタン
  4. ベネズエラ
  5. 南スーダン
  6. ミャンマー
  7. コンゴ
  8. スーダン
  9. ソマリア
  10. 中央アフリカ共和国

 

…とのこと(2022年)。

 

このうち、ウクライナベネズエラキリスト教圏で、コンゴは八割、南スーダンが六割ほど、中央アフリカで五割ほどが、キリスト教徒なのだという。

 

シリア、アフガニスタン南スーダンソマリアイスラム教圏。

 

ミャンマーは仏教国。

 

これを書きながら調べていて初めて知ったのだけど、アフリカ大陸は、大雑把に分けて、北緯10度線を境目にして、北側がイスラム教圏、南側がキリスト教圏になっているらしい。

 

スーダンイスラム教で南スーダンキリスト教なのだけど、二国の国境線は北緯10度あたりにあるようだ。

 

なんで北緯10度が宗教圏の境目になっているのかは、ちょっと検索したけど、よく分からない。植民地時代の宗主国の影響とか、使用言語や公用語の影響とか、イスラム教圏との距離の遠近とか……他にもいろいろありそうな気がする。

 

キリスト教ユダヤ教イスラム教も、アブラハムが信じた一神教をルーツとしている。だから、福音書のやもめが生活費全額を献金するほど信じていた神と、上に書いた国々の難民の多くが信仰する神は、同じということになる。

 

日用の糧、行き渡っているのだろうか。

 

(_ _).。o○

 

 

 

 

ねこたま日記(2月18日)

こんにちは。

 

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健康アプリ「あすけん」で食事管理を始めて、八日目になる。

 

つまり、プロテインなどで、タンパク質摂取量の基準値を満たすようになって、八日目ということでもある。

 

今のところ、はっきりと分かる体調の変化は、次の三つ。

 

まず、一つ目。

中途覚醒がなくなった。

 

そして、睡眠時間が短くても、深く眠れるようになっている。そのためか、朝起きたときに感じていたぐったり感が、ずいぶん減った。

 

二つ目。

頭皮などにたくさん出来ていた瘡蓋が、ほとんど消えて、抜け毛が減った。

 

昨日気づいたのだけど、2年くらい前から右耳の耳殻にずっとあった瘡蓋が、無くなっていた。

 

瘡蓋が無くならなかったのは、自然に剥がれ落ちたときに、傷がきちんと治っていなかったためだと思う。

 

三つ目。

精神状態がとても良くて、意欲や集中力の低下が起きにくくなっているので、読書やブログ更新などが苦にならなくなった。気持ちが落ち込むことも減った。

 

中途覚醒も頭皮の状態悪化(+抜け毛、薄毛)も、老化のせいだと思っていた。

 

タイミング的に、目に見えて色々と悪化し始めたのが新型コロナの後遺症に苦しんでいた頃だったので、コロナで身体が弱って老化が早まったのだと思い込んでいた。

 

うつ病はコロナ前から患っていたけれど、読み書きのしんどさが酷くなったのは、コロナ後遺症からだった。

 

実際、コロナ入院後に食がだいぶ細くなってしまっていたので、コロナがきっかけだったというのは間違いではないとは思う。

 

でもタンパク質の適切な摂取で状態が改善し始めているのだから、根本原因はコロナではなく、栄養失調だったのだろう。

 

いろいろ調べてみたところ、タンパク質不足は、瘡蓋程度で済むものではないようだ。

 

全身の筋力低下。

免疫力の低下による、感染症の深刻化、がんの再発や転移のリスクの悪化。

 

思えば、三年半前に新型コロナに感染したとき、息子はほぼ無症状、亭主は軽症で済んだのに、私だけ肺炎をこじらせて入院になった。あの頃から既にタンパク質が足りていなかったのかもしれない。

 

ほんと、気をつけよう。(´・ω・`)

 

 

(_ _).。o○

 

 

午前中は、教会学校へ。

末っ子は生理痛が重すぎて布団から出られなかったので、私一人で参加した。

 

今日は、マルコによる福音書第10章の、盲目のバルテマイのお話だった。(46節〜52節)。

 

目が見えないために物乞いをして暮らしていたバルテマイは、ナザレのイエスが近くに来ていることを知ると、大声で叫んで、イエスに哀れみを乞うた。

 

周囲の人々はバルテマイを黙らせようとしたけれど、イエスは彼を呼び寄せて、望みを聞いた。

 

バルテマイが「見えるようになること」を望むと、イエスは「行け、あなたの信仰があなたを救った」と言った。

 

たちまち視力を得たバルテマイは、他所に行かずに、イエスについて行ったという。

 

バルテマイが「救われた」のは、彼自身の信仰によるものだと、イエスは言っている。

 

彼は見えるようになることを微塵も疑わず、全力でイエスに縋って、ためらうことなく望みを伝え、叶えられた。

 

そうして、新たに切り開かれた人生の無限の選択肢の中から、イエスに付き従うという、世俗的な幸福からかけ離れていそうな道を迷わずに選びとって、あっさりそちらに行ってしまった。

 

何も見えない人生を歩んでいたバルテマイだけれども、迷うことなく自分の道を見定めることのできるほど、強い信仰の力を持っていた。

 

目が見えるようになることは、バルテマイにとっては、人生の目的ではなくて、イエスの旅に付き従って、深い信仰に生きるという願いを叶えるために、どうしても必要な手段だったのだろう。福祉サービスなどない古代では、盲目のままで旅することは不可能だっただろうから。

 

現代の医療技術でも、先天的に目が見えなまま成長してしまった人が視力を獲得することは、とても困難だと聞く。

 

けれども、生まれつき、どれほどのハンディを持っていたとしても、何かをしたいという強い願いと、それを叶えようとする意志や努力、周囲の支援があれば、何らかの形で叶う可能性は、決してゼロではない。

 

2000年前であれば奇跡と言われたような、現代の先端技術なども、人々の長年の強烈な意志や願いが具現化したものだと言える。 

 

バルテマイが視力を得たのは彼自身の信仰によるものだとイエスが断言したことが、私には興味深く思われる。

 

文明の進化を推し進めてきた意志や願いは、神に向けられたものではないから、信仰とは違うものだけれども、たとえ路傍の盲目の物乞いであろうとも、人の心には不可能を可能にし、世界を変えるほどの力があるのだと、イエスが認めているように思えるからだ。

 

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(_ _).。o○

 

 

教会の帰りに、スーパーに寄って、食材などを買って帰宅。

 

長女さんと末っ子が好物の紅茶豆乳などを買って帰宅。

 

 

 

キッコーマンの紅茶豆乳は、200ミリリットルでタンパク質を4g含むとのこと。📝

 

 

 

 

 

ねこたま日記(2月11日)

こんにちは。

 

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朝は教会の日曜学校へ。

末っ子がスキー合宿なので、私一人で参加した。

今日のお話は、マルコによる福音書の第8章、イエスが弟子たちに、「人々はわたしをだれと言っているか」と問うところ。

 

エスこそがキリストであると答える弟子たちに向かって、イエスは将来自分がユダヤの長老たちに捨てられて十字架にかけられるのだと話すと、弟子の一人であるペテロが、そんなことを言ってはいけないと諌める。

 

ペテロをはじめとする弟子たちは、イエスこそが、自分たちの王となって国を栄えさせると信じていたらしい。中には、イエスに付き従うことで、世俗的な栄誉を得ることを願う弟子もいたのかもしれない。

 

そんなペテロに向かって、イエスは痛烈な言葉を投げかける。

 

「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

 

そのあとイエスは群衆を呼び寄せて、

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」

 

と言う。

 

ものすごい宣言だと思う。

 

現世利益ゼロ、殉教待ったなしの教えに、群衆が従ったとは思えない。弟子たちも混乱したことだろう。

 

この後の第9章で、イエスは重いてんかんを患っていると思われる子どもを助けるように、子どもの父親に願われるのだけど、自分の弟子たちが子どもを救えずにいるのを見て、ブチキレる。

 

「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所ところに連れてきなさい」

 

ダメ弟子全員をまとめて破門しそうな勢いだけれど、イエスは最後の日まで彼らを見限ることなく、そばに置いている。

 

ただ、罵詈雑言を止めるつもりはなかったようで、

 

「他人の信仰を邪魔するような奴は首に石臼を結びつけて海に放り込まれろ」

 

とか、

 

「罪を犯しそうなら、手足をぶった斬れ、目ん玉もくり抜け」

 

とか、どんどん言葉が過激になっていく。

 

自分が十字架に架けられる日が近いと知らせたにもかかわらず、弟子たちの信仰が深まらず右往左往している姿を見て、よほど苛立ったのだろうか。

 

それを差し引いたとしても、イエスという方は、なかなか短気で辛辣な性格だったように思えてならない。

 

(_ _).。o○

 

 

あすけん、という健康アプリを、まじめに使うことにした。

 

毎日の食事の記録と、歩数記録、体重等の健康チェックを続けると、栄養士さんからのアドバイスがもらえる。

 

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今日一日で口に入れたものを漏れなく記録した結果、どうも私は食べ足りていないらしいと分かった。

 

カロリー不足で、脂質とタンパク質がかなり不足しているのだという。

 

食べ足りていないのに、なんで体重が減らないのか。理不尽だ。

 

なにはともあれ、足りていないものを意識しつつ、明日もきちんと記録を取ろうと思う。